夏目漱石の永遠の恋人

 「硝子戸の中」で、漱石は彼の永遠の恋人大塚楠緒子(くすおこ)との最後の出会いの情景を実に感情を抑えた筆致で描いています。しかしその文章とはうらはらに、漱石が楠緒子にたむけた句は漱石の熱情と慟哭がほとばしるものでした。

 「ある程の菊投げ入れよ棺(かん)の中」
 夏目漱石ほど多くの人に好まれ、なんども読み返される作家はいないでしょう。「坊っちゃん」など面白く読めるものもありますが、「それから」「門」「こころ」と続いていく後期の作品群は決して万人向けとは言い難い重いテーマのものです。

 それでも好まれているのは、そのテーマの普遍性や深遠さとともに、作品毎に変化させている彼の文体にもその秘密があるからでしょう。

 そんな漱石の全作品が、実はすべて永遠の恋人「大塚楠緒子」とのプラトニックな愛が背景となっている、という切り口で綿密な分析をした本があります。それは昭和49年刊 小坂晋著「漱石の愛と文学」です。

 この本によれば「それから」など後期の作品群はそのストーリーから言うに及ばず、「坊っちゃん」でさえ大いに関係があるということです。それは、漱石が楠緒子を親友に譲った傷心ゆえに、突如東京高等師範の先生をやめて遠く愛媛の松山の中学校に英語教師として赴任した、それがこの小説を生んだということを膨大な資料から解き明かしてくれます。


 しかし楠緒子も一生漱石に思いを寄せ続け、二人の関係はそれぞれの書く小説がそのつど相呼応する高尚かつ繊細なかたちで、会わなくても深い愛情をお互い持ち続けたと分析しています。

 おもしろいのは鏡子夫人の書いた「漱石の思い出」に、楠緒子にも関係あるさまざまな場面の描写があるのですが、彼女はみごとに無視しているということです。このへんは面白いが怖いものでもあります。あ、そうそう大塚楠緒子の主人は「我が輩は猫である」の美学者「迷亭」のモデル大塚保治という方です。

 さて、たまにはすばらしき日本文学に浸ってみましょう。以下に「硝子戸の中」から引用します。漱石の作品は著作権が切れていますから「青空文庫」で殆ど全作品が読めますよ。スマートフォンなどで気軽にダウンロードできます。

 実に美しい文章です・・・。

 私がまだ千駄木にいた頃の話だから、年数にすると、もうだいぶ古い事になる。

 或日私は切通しの方へ散歩した帰りに、本郷四丁目の角へ出る代りに、もう一つ手前の細い通りを北へ曲った。その曲り角にはその頃あった牛屋の傍に、寄席の看板がいつでも懸っていた。

 雨の降る日だったので、私は無論傘をさしていた。それが鉄御納戸の八間の深張で、上から洩ってくる雫が、自然木の柄を伝わって、私の手を濡らし始めた。人通りの少ないこの小路は、すべての泥を雨で洗い流したように、足駄の歯に引っ懸る汚ないものはほとんどなかった。それでも上を見れば暗く、下を見れば佗びしかった。始終通りつけているせいでもあろうが、私の周囲には何一つ私の眼を惹くものは見えなかった。そうして私の心はよくこの天気とこの周囲に似ていた。私には私の心を腐蝕するような不愉快な塊が常にあった。私は陰欝な顔をしながら、ぼんやり雨の降る中を歩いていた。

 日蔭町の寄席の前まで来た私は、突然一台の幌俥に出合った。私と俥の間には何の隔りもなかったので、私は遠くからその中に乗っている人の女だという事に気がついた。まだセルロイドの窓などのできない時分だから、車上の人は遠くからその白い顔を私に見せていたのである。

 私の眼にはその白い顔が大変美しく映った。私は雨の中を歩きながらじっとその人の姿に見惚れていた。同時にこれは芸者だろうという推察が、ほとんど事実のように、私の心に働らきかけた。すると俥が私の一間ばかり前へ来た時、突然私の見ていた美しい人が、鄭寧(ていねい)な会釈を私にして通り過ぎた。私は微笑に伴なうその挨拶とともに、相手が、大塚楠緒さんであった事に、始めて気がついた。

 次に会ったのはそれから幾日目だったろうか、楠緒さんが私に、「この間は失礼しました」と云ったので、私は私のありのままを話す気になった。「実はどこの美くしい方かと思って見ていました。芸者じゃないかしらとも考えたのです」

 その時楠緒さんが何と答えたか、私はたしかに覚えていないけれども、楠緒さんはちっとも顔を赧(あか)らめなかった。それから不愉快な表情も見せなかった。私の言葉をただそのままに受け取ったらしく思われた。

 それからずっと経って、ある日楠緒さんがわざわざ早稲田へ訪ねて来てくれた事がある。しかるにあいにく私は妻と喧嘩をしていた。私は厭な顔をしたまま、書斎にじっと坐っていた。楠緒さんは妻と十分ばかり話をして帰って行った。

 その日はそれですんだが、ほどなく私は西片町へ詫(あや)まりに出かけた。「実は喧嘩をしていたのです。妻も定めて無愛想でしたろう。私はまた苦々しい顔を見せるのも失礼だと思って、わざと引込んでいたのです」

 これに対する楠緒さんの挨拶も、今では遠い過去になって、もう呼び出す事のできないほど、記憶の底に沈んでしまった。

 楠緒さんが死んだという報知の来たのは、たしか私が胃腸病院にいる頃であった。死去の広告中に、私の名前を使って差支ないかと電話で問い合された事などもまだ覚えている。私は病院で「ある程の菊投げ入れよ棺の中」という手向(たむけ)の句を楠緒さんのために咏んだ。それを俳句の好きなある男が嬉しがって、わざわざ私に頼んで、短冊に書かせて持って行ったのも、もう昔になってしまった。