もしも背広がなかったら?

  昨晩、久しぶりに地元経済界の公の集まりに出席してきました。
みんなクールビズなので、いつもより自由闊達な雰囲気がありました。
 でも限界が・・・「やはりおれも会社人だな〜」とつくづく思いました。というのは、まわりに気兼ねして一人の人間としての意見は思い切り遠慮してしまうからです。ネクタイはなくても背広を着てますから習性が抜けないんですね。

 もし、仕事の場すべてで背広やユニフォームがなくなったらどういう社会になるでしょうか? 私は何か良い方を期待しますね。つまり「会社人」ではなく一人の「社会人」とか「人間」として意見を話せる社会に近づくのではと。

 確かに背広やユニフォームを着るとシャッキとして、女の事務員さんなんかもグッと魅力を放ったりもするので惜しい面はあるし、毎日着ていく服を替えなくていいという経済価値もあることには違いないんですが。

 私が高校生の頃1970年に母校の制服を廃止したんです。ところがみんな学生服のまま・・・、普通の服がろくになかったという笑えない話も経験しています。

 さて、なぜこんな話かといえば、まずこれを読んでください。

柳澤桂子「いのちと放射能」
「はじめに」より

 原子力発電に対する反対運動が盛り上がりを見せていることをたいへんうれしく思います。いろいろなものを読んでみますと、私たちは何も知らされていなかった、だまされていたのだという感をぬぐいきれません。

 けれども、もし、私か経済産業省のお役人だったら、あるいは電力会社の幹部だったらこの問題を阻止できたかどうかと考え込んでしまいました。

 アメリカでも、薬の販売会社が、国にサリドマイドの販売許可を求めました。しかし、厚生労働省にあたるような国の保健機関に勤めていたケルシー女史が、ドイツで発表されていた論文を読み、この薬はおかしいと直感しました。まだサリドマイドと奇形との因果関係ははっきりしていませんでしたが、ケルシー女史は「あやしいものは許可しない」という信念をつらぬきました。そのお陰で、アメリカではサリドマイド児はひとりも生まれませんでした。ケルシー女史にはケネディ大統領から勲章が贈られました。

 誰もがケルシー女史のように正義感強く、勇敢になれるとよいのですが、私白身、まったく自信がありません。勇敢であるだけでなく、彼女は勉強家でもあったのです。外国の文献をきちんと読んで、正しい勘を働かせたのです。

 原子力問題においても、この人間の弱さがいちばん問題なのではないでしょうか。大きな組織に組み込まれると、個人の意志とは関係なく、不本意な動きをさせられてしまうことがあります。

 原子力問題でいちばんの悪者はいったい誰なのでしょう。
 原子力を発見した科学者でしょうか。
 原子力発電を考案した人でしょうか。
 それを使おうとした電力会社でしょうか。
 それを許可した国でしょうか。
 そのおそろしさに気づかなかった国民でしょうか。

 そのように考えてきて、私はふと、私がいちばん悪かったのではないかと気がつき、りつ然としました。

 私は放射線が人体にどのような影響をおよぼすかをよく知っていました。
 放射能廃案物の捨て場が問題になっていることも知っていました。
 けれども、原子力発電のおそろしさについては私はあまりにも無知でした。

 たしかに各国の政府は原子力発電が安全なものであると宣伝しました。けれども私もこの歳まで生きて、政治というものがどういうものか知らなかったとはいえません。

 スリーマイル島の事故のとき、それをどれだけ深刻に受け止めたでしょうか。人間のすることにミスはつきものであることは、いやというほど知っていたはずです。

 そして、さらに、チェルノブイリの事故が起こってしまいました。

 私も本当にそうです。ネクタイをして大きなビルに通う仕事をしていたら言いたいことを言えない人生を歩んだに違いない・・・みんなそうなんだよな。
だから私は「みんなの独創村」を始めたんです。「しごと」と「人」を重ね合わせられないかと思って。

 でもこれには怖いことがあることもわかりました。私は「人」を大事にした重ねあわせを考えていたのですが、その逆の人たちがいることを知ったからです。

 「しごと」に自分の「ひと」を同化させてしまう人たちのことです。確信犯というのでしょうか。反省をわざとしない人たちというのでしょうか。そのような人がエリート層に多いように思います。現代は彼らが大きな問題を起こしているように思います。

 一つの例を短い動画でご覧ください。御用学者というまさに今話した種族と、その反対の方の過去の討論です。浮かび上がってくるものを何か感じませんか?