本の中の世界より

 私は真の科学者は哲学者でもあり芸術家でもあると思います。理科系と文化系に分けてしまうことは間違いだと思っています。湯川秀樹さんの「本の中の世界」を読むと本当にそう思います。あらゆる種類の文学や思想や文化が湯川さんの物理学のバックボーンとしてつながっています。涼しい雨降りの夜、静かに読書して心を落ちつけるのは実に気持ちがいいものです。


 「本の中の世界」は2005年にみすず書房から発刊されました。
湯川さんが50歳の1957年から58歳になる1965年まで主に『図書』に掲載されたエッセーを集めています。
58歳といえば今の私と同じ、比べてもしょうがないですがやはり人間の深さが違う・・・いつまでも迷い続け真理を探求し続けている。


 真の科学者とは、人間・生命に関しての深い関心とモラルを持つ人、つまり誠実な人のみをいうと思います。この本から珠玉の言葉を何回かに分けて紹介させていただきます。

「荘子」
 儒教にせよ、ギリシャ思想にせよ、人間の自立的、自発的な行為に意義を認め、またそれが有効であり、人間の持つ理想を実現する見込みがあると考えるのに対して、老子や荘子は、自然の力は圧倒的に強く、人間の力ではどうにもならない自然の中で、人間はただ右へ左へ振り回されているだけだと考えた。中学時代にはそういう考えを極端だと思いながらも強く引かれた。高等学校の頃からは、人間は無力だという考えに我慢がならなくなった。それで相当長い間、老荘思想から遠ざかっていた。しかし私の心の底には、人間にとって不愉快ではあるが、そこに真理が含まれていることを否定できないのではないかという疑いがいつまでも残った。

「近世畸人伝」
 当たり前の社会というのは、すべての人が当たり前な社会ではなく、多数の当たり前の人たちと少数の当たり前でない人たちとが共存し、動的平衡を保っている社会ではなかろうか。

「狂言記」
 狂言を作る人も、実演する人も、見る人も、すべて「開かれた心」を持っていたといえよう。能では心が内に向かって深まっていったのに対して、狂言では心が外のあらゆる物に対して、自由に反応したともいえよう。

「源氏物語」
 この物語が全体として私たちに与える印象は、もう少し違う。すべての事物、すべての人物がぼんやりとした照明の中で、ゆっくりゆれ動いている。その中で、ある人物の心の内面に、強い照明があてられ、気持ちの微妙な変化が浮き出してくる。しかし、依然として、その人の顔形もさだかにはわからない。物質と肉体の持つ、はっきりした輪郭と手ごたえは、そこにはない。外形がはっきりしていて、心の奥は暗くてわからないのが普通であるのに、ここでは、明暗が逆になっている。この逆転によって、比類のない美しい世界を創造し得ることを、紫式部は千年の昔に発見したのである。
 近代科学はどこまでも物質的存在の明確さを追求しようとする。その先にいつでも不明確なものがあることを知っていればこそ、ますます執拗に明確さを追求するのである。ここでも明るい前景の向こうには暗い背景があるのである。しかし明暗のコントラストが、近代科学の世界と源氏物語的世界では、逆になっている。どちらが陽画でどちらが陰画かは、さておき、これら二つの世界のどちらへも入ってゆけるということこそ、人間に生まれてきた大きな仕合せであると、私は思っている。