先祖のDNAが目覚める

 私は高校生の頃生物部でミツバチの研究をしていました。もう42年前のことになるんですがその頃のことが昨日のように思い出されます。ミツバチというのはとても考えさせられる生き物でした。なんというか感動とか尊敬の念を抱かせる面がありました。

 それはミツバチの社会性ということに対して感じるものでした。巣づくり、育児、コミュニケーション、スズメバチとの戦いなどすべて分業と協働で成り立っている社会なのです。齢に応じて役割が変わっていったり、さらに女王蜂がいなくなった非常時には働き蜂がその代わりをしたり(単為生殖で雄だけ生まれる)、人間社会とは大きく異なる集団社会ではありますが、その社会性になにか本能的な親近感を感じる面があるのです。「助け合う社会」を感じると云えるかもしれません。

 さて、震災では多くの人と多くの物を失いました。でも、全国から集まったボランティアさんが献身的にしかも明るく作業をしてくれる場面を見るたび、海岸に小さな新たな種子が流れ着いたような気がするのです。それは「助け合いの喜び」という種子であると云えるでしょう。今そこから「助け合う仕事への希望」という芽が育ちつつあるように思うんです。

 それがなぜ私たちのハートを揺さぶるのか、私はこんなふうに思います。
「私たちは生物として一人の例外もなく先祖のDNAを受け継いでいる。それがあるきっかけで目覚めるとき先祖が持っていた人間的心情がよみがえる」

 それがどんなものかを語ってくれる文章があります。

内山節(たかし)著
「戦争という仕事」より

労働観

 上野村で暮らしているときは、たえず自然がみえている。景色として自然がみえるだけではなく、自然との結びつきを持ちながら働き暮らす自分や村人の様子がみえているのである。

 大多数の人々は、長い間、そんな暮らしをしてきたのだろうと思う。自然に支えられ、ときには自然に打ちのめされながら、自分たちの働き生きる世界をつくってきた。

 それはどこの国の人々でも同じであって、そこから、その地域の人々の基層的な労働観がつくられた。日本をみれば、日本的な自然に包まれて田畑をつくり、山や川、海に入り、村をつくりながら生きてきた人々の労働観が生まれたのである。

 とすると、この労働観とは何だったのだろう。私は、それは修業と貢献という言葉に集約されるものだったのではないかと考えている。労働のなかに修業をみる、つまり労働のなかに技術や知識、判断力などが向上していく過程を期待する心情と、自分の労働が何かに役立っていてほしいと願う心情である。

 このような心情を、伝統的な農山漁村の暮らしはつくりだした。なぜなら嵐もあれば旱魃もある、冷夏もあれば豪雪もある変化の激しい自然のなかで安定した村の暮らしをつくろうとすれば、人間はさまざまな能力を高めつづけなければならなかったし、お互いに貢献しあう生き方をせざるをえなかったからである。労働をとおして自分の能力を高め、何かに貢献しながら働けることを理想とする心情が、ここから生まれた。

 面白いのは、この基層的な労働観をいまでも私たちはどこかに持ちつづけていることである。都市の企業や組織で働く人々が大多数になり、自然との関係もみえない働き方をしているのに、私たちは労働が単なる肉体や精神の消耗に終わらず、自分の能力が向上し、自分の労働が何かに役立っていると感じるとき、私たちは労働に働きがいをみいだす心情をいまも持っている。

 逆に述べれば、自分の能力の向上に結びつかない労働や、何かへの貢献を感じとれない労働に対しては、それをつづける意欲がわいてこない。時代が変わっても、長い時間をかけて育まれてきたその社会の基層的な精神は、案外変わらないのである。

 こんなふうに考えていくと、人間の経済活動は経済原理にしたがった合理性だけでは展関していない、ということがわかってくる。今日の市場経済の合理性からみれば、基層的な労働観などどうでもよい。そんなものは経済活動を展開させていく指標にはならないだろう。なぜなら今日の市場経済は、市場をとおして競争し利潤をあげていくことを目標にしているのであり、人間はそのための道具にすぎない。人間はこのシステムのなかの一要素である。しかもその市場経済はグローバル化している以上、それぞれの社会が育んできた基層的な労働観など無視して、世界市場や国境を越えた経済活動を展開させているのが今日の市場経済である。

 ところが、市場経済の原理はそういうものであっても、その経済を動かしているのもまた人間である。そして、その人間たちは、自分の労働観を持ちながら仕事をしようとする。経済原理だけで働いているわけではない。ここに、現実の経済活動の矛盾があるのだと思う。市場経済は原理的には、経済論理の合理性だけで動こうとし、しかしそこで働いている人々は、人間としての心情を持ちながら働こうとする。

 経済活動がグローバル化している今日表面化してきたことのひとつは、このような問題ではないかという気がする。経済が市場原理にしたがおうとすればするほど、そこで働く人々は、働く情熱を後退させていく。日本でいえば、修業も貢献もみいだせない労働から感じとれるものは、日々の疲れだけになってしまう。

 今日では、以前のように定年後も働きつづけたいと考える人は少なくなった。企業を早くやめて、職人的な仕事をしたり農民になりたいと考える人も、「ボランティア」的な仕事の方を大事にする人もふえてきた。

 経済原理が重視されるようになったとき、皮肉なことに、市場経済は人間の労働意欲の低下という現実をみせはじめたのである。