一番悲しい絵

 海は深くなればなるほど暗くなります。暗い題材に深い芸術性を感じるのとよく似ています。偉大な作家や画家は暗さに耐えつつ対象を見つめ、それによって深い海底を蹴ろうとしているのでしょう。もう一度水面のまばゆい光を求めて。そんな絵があります。お盆にちなんでその絵についての話をしてみます。
 熊谷守一「陽(よう)の死んだ日」

 この絵は倉敷の大原美術館にあります。熊谷守一48歳の時、息を引き取ったばかりの次男「陽」をその枕元で必死に描いた絵です。我が子の死に顔をですよ・・・「壮絶」の一語です。守一の顔は鬼気迫るものであったことでしょう。

 しかも、妻にいくら頼まれても「売り絵」を描かず(描けず)、この子を病院に連れていくお金さえなく、赤貧の犠牲として四歳の陽は亡くなったのです。すべては自分に責任があると思いつつ、売り絵を描くことができなかった守一は、真の芸術家だけしか持ち得ない宿命というか業を持った人でした。その宿命とは「妥協を許せぬ精神」です。

 それにしても・・・と思います。芸術家とは「創造という業を背負い続ける人」といえるのではないでしょうか?そんな自分を鏡で見てしまったというような彼の言葉が残っています。

 「次男の陽が四歳で死んだときは、陽がこの世に残す何もないことを思って、陽の死顔を描きはじめましたが、描いているうちに“絵”を描いている自分に気がつき、嫌になって止めました」

 その後しばらくして守一の絵は変貌します。形態を簡略化した抽象画のような絵に。晩年、彼は自宅の庭の雑草の中に日がな過ごし、虫たちを観察し彼らと暮らしていました。wikipediaから一部引用します。

 絵の描けない熊谷が60歳近くになってから始めたのが、書や墨絵であった。線と余白だけで喜びも悲しみも表現する。その可能性に惹かれていく。67歳の時、再び家族に不幸が起こった。長女の萬までも病気で21歳の若さでなくなった。

 熊谷はその悲しみを再び絵にした。お骨を抱いて焼き場から戻る、熊谷とその家族「ヤキバノカエリ」(1948年(昭和23年)〜1956年(昭和31年))。子供を失った悲しみが、陽の死の時とは全く違った筆致で表現されている。家族の顔には、眼も鼻も口も描かれていない。しかし、画面からは尊い命を失った悲しみがにじみ出てくるかのようであった。

 この後、熊谷は東京豊島区の自宅から一歩も出なくなった。わずか15坪の小さな庭が彼の世界の全てになった。その小さな世界に息づく様々な草花や虫、そして小さな動物たち。熊谷は身近な命の輝きを見つめた。独特の絵の世界は、こうして完成した。そこには熊谷の命を見つめる優しい眼差しがあふれている。一本の線と面に宿る大きな力。熊谷はその独特な画風も「下手も絵のうち」と表現している。熊谷は「下手といえばね、上手は先が見えてしまいますわ。行き先もちゃんとわかってますわね。下手はどうなるかわからないスケールが大きいですわね。上手な人よりはスケールが大きい」と語る。

 97年の生涯のうち、晩年の30年間は全く外出せず、わずか15坪の庭の自宅で小さな虫や花を描き続けた。面と線だけで構成された「赤蟻」(1971年)シンプルな油絵。対象を見続けたその独特な画風は、高い評価を受けた。

 最後に彼の有名な言葉を。

 「蟻の歩き方を幾年も見ていてわかったんですが、蟻は左の二番目の足から歩き出すんです」

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