私たちには鏡が必要だ

 どんなに自分が若いと思っていても鏡を見れば一目瞭然!「あ〜年には勝てない・・・」もしそのとき口元に食べ残しなんかが付いていれば、考える間もなく手が動きます。「あ〜はずかしい・・」と。今の社会は鏡が足りない社会かもしれません。
 そんな思いがしたのは、宇宙物理学者で作家でもある池内了(さとる)さんの「ヤバンな科学」という本に書かれていた次の文章を読んだからです。この文章は今から十二年前に書かれたものです。

「ヤバンな科学」
「建築と社会」1999.2.3より

 ・・・三ヶ月住んでみて、太陽光発電の有効性を強く感じています。十一月の太陽の光でも、ほぼ使用電力を賄ってくれるのです。それには別の理由もあります。私は希望して、パネルが発電する電力量とともに、関西電力から買っている電力量、関西電力に売っている電力量の、三つが数値として見えるモニターも設置しました。

 この数値を眺めていると、売る量を増やしたいのが人情ですから、私たち夫婦は知らぬ間に節電するようになったのです。さらに、冷蔵庫をはじめとして、リモコンのテレビ、電子レンジ、便座を暖めている便器など、たとえ家が無人であっても電気が四六時中流れている電気製品が多いことに気が付きました。これを計算すると、なんと全電力量の五分の一にもなるのです。

 そこで、テレビは本体のスイッチで切り、電子レンジは使用後コードを抜き、便座は本当に必要になるまでオフにすることにしました。このような節電努力が太陽光発電に伴うので、電気の使用量が激減したのです。発電量と使っている電気量が目に見えるモニター設置を、ぜひお薦めします。

 鏡さえあれば私たちは自律回路が働きます。その回路さえ働けば「自然」や「人間性」からかけ離れたことにブレーキがかかります。

 ところが人は大きいことばっかし好きなので、今や多くのことが巨大な一極集中になりブラックボックス化しています。そのなかで私たちは鏡のない社会を一生懸命作り続けています。

 原子力か自然エネルギーかという選択は、単なる経済効率性だけではなく、人々が自律制御できるシステムか否か、という観点もあるのだと思います。その答えは決まっています。自律不可能なシステムの中では、私たちはシステムの家畜となっていくでしょう。マトリックスのように。

 科学者とか技術者、経済評論家には、このような人間的価値から考えを組み立てていく真の「教養」がもっともっと必要ではないでしょうか。そうでなければ「子どもの火遊び」はとどまるところをしらないでしょう。