旅先のポートレート

 向田邦子さんの妹、和子さんが姉の死から二十年後にやっと著した「向田邦子の恋文」その本の後半にはなんともいえない。。。場面が描写されています。

旅先のポートレート

 二十代のポートレートを繰り返し、繰り返し見た。
 一枚の写真にドキッとした。旅先の宿で姉は窓際の籐椅子に腰掛けている。
その前の小さなテーブルの上に二つの茶碗があり、一枚の皿に二本のフォークがきれいに並んでいる。おびただしい数のポートレートを何度も見ながら、小さな疑問はいくつもあった。でも私自身がピンボケで、違和感を持つだけだったが、この一枚の写真がモヤモヤに鋭い亀裂を走らせた。
 えっ、これって。そうだったのか!
 カメラマンN氏と二人旅だったのだ。二人の仲を一枚の写真が静かに物語る。

・・・涙がこみあげ、どうしようもなく泣けて仕方がなかった。

二人の死

・・・父の死に際して、姉が見せた姿。それと同じように、忘れられない、そして消すことの出来ない姉の姿がもうひとつある。

 あれは、どういうことだったのか。なにがあったのだろう、という強烈な姿である。真冬の真夜中、私はふっと目が覚めた。お手洗いに行こうかな、と薄ぼんやり思った。そのためには、隣の姉の部屋の前を通らないと行けない。少し開いた部屋の襖の細いすき間から、ほの暗い灯りが見える。

 お姉ちゃん、帰ったのかな、もう寝るのかな。
 ふやけた脳味噌で、いつもなら姉に声をかけているところだ。でも、その晩はページをめくる音も聞こえない、仕事をしている様子もない。真夜中の澄んだ無音の響きが耳もとに届く。この静けさ、ほの暗い灯りの不思議さはなんだろうか、と思った。建てつけの悪い襖のすき間から、空気が忍び込んで来る。隣の部屋を覗いてしまった。無意識に近い行動だった。

 姉は整理箪笥の前にペタンと座り込んで、半分ほど引いた抽斗(ひきだし)に手を突っ込んでいた。放心状態だった。見てはいけないものを見てしまった、と咄嗟におもった。「どうしたの?」と声もかけられない。「どうしたの?」声をかけられるのは、相手にほんのわずかでも余裕やスキがあるときだ。何か大変なことがあったのだ。ここまで憔悴しきった姉の姿を見るのは初めてだった。衝撃を受け、打ちのめされた。ただただ音を立てまいと息を殺し、布団にもぐりこんだ。寒く、長い冬の夜であった。

 この夜の姉の姿とN氏の死が結びついたのは、父の死に際して、垣間見てしまった姉の姿があったからだ。二つの光景が重なり、あの寒く、長い冬の夜はもしかすると、と想像し、その想像は「間違いない」という思いになっている。

 N氏の死も突然であった。
 死の二年前、N氏は脳卒中で倒れ、足が不自由になり、働けない状態にあった。私がそのことを知ったのは、姉の死から二十年経った平成十三年の夏、姉の「秘め事」を自分の責任において公開しておいた方がいいと決めてからである。NHKの衛星放送が没後二十年のドキュメンタリー番組をつくり、その中で紹介された。番組の制作スタッフが調べてくれたところ、N氏は自ら死を選んだという。

N氏との出逢い

 誰に聞くともなく、私も後で知ることになったが、姉とおつきあいのあったカメラマン、N氏は邦子より十三も年上で、妻子のある方だったという。

・・・父がいつものように植木のうんちくを傾け、私はいつものように頷きながら、父の話はうわのそらだった。その時である。姉が男の人と連れだって、門前に現れた。私は父の背中ごしに見ていた。

 その人は姉と変わらないぐらいの背丈で、ずんぐりむっくりし、やさしそうに見えた。姉とその人は玄関に入った。母と立ち話をしていたが、父と言葉を交わすことはなかった。その人は父に目礼をし、姉は父にひとこと声をかけ、でかけてしまった。ほんの二、三分の出来事だった。ついでに立ち寄った、という感じだった。

 私が知る限り、その人N氏がわが家を訪れたのは、これきりだ。そして、父と母がN氏を話題にしたことも、邦子本人が茶の間でN氏の名前を口に出した記憶も私にはない。

 順不同で引用しました。

写真は「向田邦子の青春」より