杉浦日向子の「ケータイ観」

 2005年7月、たぶん故郷の江戸へタイムスリップしたと思われる杉浦日向子さん。江戸で戯作家か浮世絵師でもやってるんでしょうか。私もいつか時空自転車で彼女に会いに行きたいなと思っています。
 杉浦日向子さんが現代にいた頃、こんな文章を残しています。
 いや〜私も実に耳が痛いな〜。

「杉浦日向子の食・道・楽」より
気味悪いケータイ

 ケータイは、気味悪い。
 
 路上でも、電車の中でも、みながスゴイ迅速に、親指を動かして、メールを送信している。隣で急に、リアルな着メロがなったりもする。けっこう大音量だ。
 
 ペースメーカーに影響があるから、電源を切るようにというルールだが、ちっとも守られていない。ケータイがなければ、死んでしまうというくらいの、必須アイテムなのだそうだ。
 
 何を送信しているのかと思えば、語彙が、ものすごく幼稚な、話し言葉。こんなこと、わざわざ連絡しなくても、いいんじゃないかという、他愛ない内容だ。

 これが若者だけじゃない。イイ大人が、ちゃかちゃかやっている。

 「つながっている」安心感で、今を生きられるのだと云うのだけれど、あんなのは、ちっとも、つながってなんか、いない。

 触れられる距離にあって、肉声で、気持ちを伝えてこそ、絆を確認できる。足を運んで、一歩ごとに近づいて、会いに行く。肩に触れ、握手して、あいさつをする。それが、人間の、付き合いだ。

 機能満載のケータイによって、身体感覚が著しく低下している。生身に会ったこともないのに、唯一の友人と思い込んだり、ちょっとした不満を、不用意に垂れ流してしまったりする。自制もなしに。

 まるっきし、脳ミソを使わない方法だ。

 手間を惜しまぬほど、人づきあいは深くなる。手抜きで三百人と知り合っても、温もりは、ほんのわずかしか得られない。都合の良い、バーチャルな人生は、いつでも簡単に手に入るけれど、達成感はない。

 便利は、不健康だ。不便を、克服していく過程で、ひとは、ちからをたくわえていく。手のひらの中の、ちっこい装置は、おもちゃであって、体温はない。

 自分は、隠居十年目だから、世の中のいろんなことに小言を云う。それが、いわば、仕事だから、鼻の穴をふくらませて、なんだかんだ云う。

 それは、誰もが身の詰まったカニのような人生を味わってほしいからです。「五感」は、生き物の、最大の宝です。観る、聴く、触る、嗅ぐ、味わう。

 液晶の画面に、おぼれて、周りの風や光をキャッチできないように、ならないでね。

 そんなことはない。自分はいつでもリアルの世界に戻れるのさ。と自信を持ってるオトナは多い。

 ですけどね〜。そんな私も今や携帯電話にi-phone、i-pad、ノートパソコン、wifi、これらの充電だけでもラーメン状態のケーブルです。

 油断大敵!!