ファンタジーの力

 ブログを書き始めて4ヶ月、書き続けるのは修行に近いことですが、そのかわり過去の自分ブログを読む楽しさが「みやげ」についてきます。自分ブログを読書中、けっこうファンタジーとかアニメ、児童文学の話が多いな〜、と感じていたら「なるほどそうだったのか!」という書評が今朝の新聞に。
 黒ぶちのめがねでいつも微笑みながら、ゆっくりとした口調で生命や自然の話をわかりやすく解説してくれる生物学者の福岡伸一さん。彼はけさの朝日新聞にこんな書評を寄せていました。

「いまファンタジーにできること」
アーシュラ・K・ル=グウィン<著>

真偽の見え方、美醜の基準示す

 ヒトはサルの幼形成熟(ネオテニー)として進化した。そんな魅力的な仮説がある。子供時代が延長され、子供の特徴・特性を残したままゆっくり成長する。

 すると好奇心に満ち、探索し、道草を食う。攻撃よりも接近、争いよりも遊び、疑いよりも信じることが優先され、合理より物語に惹かれる。つまり、学び、習熟し、想像力の射程が延びる。これがヒトをヒトたらしめたのだと。

 『ゲド戦記』で世界を魅了し、愉快な『空飛び猫』(邦訳は村上春樹)を生み出したル=グウィンは実作者の立場から、ファンタジーの作用もまさにそこにあると言う。

 ファンタジーとは、子供だましでも夢物語でもなく、まさに子供であるときにしか感得できない力、子供だけに見える世界を与えつづけることだと。

 それは、レイチェル・カーソンが「センス・オブ・ワンダー」と名づけたもの、あるいは児童文学者の石井桃子が言った「大人になったあなたを支え続けるもの」と同じでもある。

 なぜ、ファンタジーでは重力が無化され、動物たちがヒトと会話するのか。それはデカルト的二元論、キリスト教的排他主義、行動主義理論などがこぞって決めつけてきた大人の理屈、すなわち機械論的自然観から本来的に全く自由であるからだ。

 この本を読んで、私はかつて昆虫少年だったのに、なぜファーブルではなく、まずドリトル先生の物語に惹かれたのかという疑問が解けた気がした。

 ファンタジーは、善悪の違いを教えるだけでなく、むしろ真偽の見え方を教える。それ以上に美醜の基準、フェアネスのありかを示す。物語のかたちをとって。なぜ生命操作が美しくなく、どうして巨大技術が醜いのかを教えてくれるからである。

 あれだけの作品群を書きつつ、こんなに緻密な評論をものにする。ル=グウィンをル=グウィンたらしめる理由がここにある。

 このような「わが意を得たり」の文章を、三本指打法で、とつとつとタイプしていくことはとても気持ちのよいことです。

 私にはこの文章に惹かれるわけがあります。それは言葉というか論理の空しさを日々感じるからです。

 私が、いや多くの人が直面したらきっとそう感じるはずの『邪悪なるもの』、それは戦争とか原爆とかそれらと深いところでつながっている原発とかなんですが、「正義」「必要悪」「経済効率」というような言葉でいかようにも浄化され美化されてしまう現実を日々感じるからです。

 言葉があまりにも役に立たない今、言葉を超える、あるいは言葉の出発点を決める、もっと納得のいく原点はないのだろうか?と日々思うのです。

 その原点はファンタジー(物語)にあった。そこにある原点とは「真偽は定めるものではなく見えるものである」「世には美しいものと醜いものがある」(表面的な美醜ではなく本質的な)というものです。

 それらを感じる感性は小さい頃ほど豊かであったこと。大人になるとその感性をおまけのように考え、原点が「言葉」にすりかわっていくこと。これが私たちの『病』ではないかと感じます。そのような感性の原点が残っている人も多いと思うのですが、その原点よりも『言葉』が先にあると思い込んでしまうところが問題ではないでしょうか。

 かつて「金を儲けてなにが悪い」と堂々と語った人がいました。正直多くの人は「何かひっかるが、言われてみればそのとおりだ」と思ったのです。世のすべて、言葉を工夫すれば悪いことなどひとつも存在しません。

 しかしもうひとつの判断基準が。「それは美しいことか?醜いことか?」ということです。

 さらにもうひとつあるかもしれません。それは「未来にとって善いことか?悪いことか?」の観点です。

 これはミヒャエル・エンデの思想の核です。今私たちが選択し行動していることはすべてそのつど未来を変えている。その未来からの警告、いや悲鳴を「ネバー・エンディング・ストーリー」では垣間見せてくれるのです。

 たぶん、「未来が微笑んでいること」これが「美しい」の本質のひとつであることは間違いないでしょう。


 
 参考:「ミニシアターに好感」 「モモが出番を待っている」