読書について

 衣替えに思いをいたす今日この頃、この季節だけは自分の目を液晶画面から手元の良書に向け直したいものです。読書について先哲のためになる話を一つご紹介します。
 けっこう毒舌、それゆえピリッとした内容で、お堅いことを書いてるわりに読みやすいショウペンハウエル爺さん。



 彼の『読書について』から、耳に痛い読書論をおひとつどうぞ。


 読書は、他人にものを考えてもらうことである。

 本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書き線をペンでたどるようなものである。

 だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移るとき、ほっとした気持ちになるのも、そのためである。

 「読書って『自分頭』じゃないよ。『他人頭』だよ」って、ズバリと言い切ってるところが面白いですね。

 だが読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。そのため、時にはぼんやりと時間をつぶすことがあっても、ほとんどまる一日を多読に費やす人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く。

 常に乗り物を使えば、ついには歩くことを忘れる。しかしこれこそ大多数の学者の実情である。彼らは多読の結果、愚者となった人間である。

 なぜなら、暇さえあれば、いつでもただちに本に向かうという生活を続けて行けば、精神は不具廃疾となるからである。

 だんだん非読書論みたいになってきましたよ・・・

 実際絶えず手職に励んでも、学者ほど精神的廃疾者にはならない。手職の場合にはまだ自分の考えにふけることもできるからである。

 だが、バネに、他の物体をのせて圧迫を加え続けると、ついには弾力を失う。精神も、他人の思想によって絶えず圧迫されると、弾力を失う。
 
 食物をとりすぎれば胃を害し、全身をそこなう。精神的食物も、とりすぎればやはり、過剰による精神の窒息死を招きかねない。

 多読すればするほど、読まれたものは精神の中に、真の跡をとどめないのである。

 たしかに、本をこんなに読んでて、なんでこんなにアホなんだと思わざるをえない人間は多いな。

 つまり精神は、たくさんのことを次々と重ねて書いた黒板のようになるのである。したがって読まれたものは反芻(はんすう)され熟慮されるまでに至らない。

 だが、熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。食物は食べることによってではなく、消化によって我々を養うのである。

 それとは逆に、絶えず読むだけで、読んだことを後で考えてみなければ、精神の中に根をおろすこともなく、多くは失われてしまう。

 しかし、一般に精神的食物も、普通の食物と変わりはなく、摂取した量の五十分の一も栄養となればせいぜいで、残りは蒸発作用、呼吸作用その他によって消えうせる。

 なるほど、たとえがおもしろい。納得・・・。さて結論です。

  さらに読書にはもうひとつ難しい条件が加わる。すなわち、紙に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。

 歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。

 う〜ん。意地悪爺さんショーペンハウエルの言うことは、皮肉も痛烈だが、でも本質を突いている。

 彼はとても人間的な哲学者だったようです。ラッセルの「西洋哲学史」に、彼のエピソードが書かれています。こちらのブログで紹介しました。
 愛すべき「哲人」たち

 う〜ん。さもありなんと思わせます。私は好きですね。

 それとブログっていうのは反芻熟慮に役だつな〜と、あらためて自分自身に対するブログの効用というものを感じました。

<ショーペンハウエル爺さん関係の過去ブログ>
 毒舌幸福論「人は変わりようがないのさ」
 ショーペンハウエル「悩みは幸福の尺度である」
 睡眠は死への利息払い
 本を読むなという「読書論」
 超訳「毒舌幸福論」
 意地悪じいさんの本
 愛すべき「哲人」たち