煙のにおい、海辺のにおい

 記憶をよびさます力がもっともすぐれているもの、それは「嗅覚」です。その不思議と感動を、レイチェル・カーソンは『センス・オブ・ワンダー』でこんなふうに語っています。

 視覚だけでなく、その他の感覚も発見とよろこびへ通づる道になることは、においや音がわすれられない思い出として心にきざみこまれることからもわかります。

 ロジャーとわたしは、朝早く外に出て、別荘の煙突から流れてくる薪を燃やす煙の、目にしみるようなツンとくる透明なにおいをかいで楽しんだものでした。

 引き潮時に海辺におりていくと、胸いっぱいに海辺の空気を吸い込むことができます。いろいろなにおいが混じりあった海辺の空気につつまれていると、海藻や魚、おかしな形をしていたり不思議な習性をもっている海の生きものたち、規則正しく満ち干をくりかえす潮、そして干潟の泥や岩の上の塩の結晶などが驚くほど鮮明に思い出されるのです。

 やがてロジャーが大人になり、長いあいだ海からはなれていてひさしぶりに海辺に帰ってくるようなことがあったなら、海のにおいを大きく吸い込んだとたんに、楽しかった思い出がほとばしるようによみがえってくるのではないでしょうか。かつて、わたしがそうだったように。

 嗅覚というものは、ほかの感覚よりも記憶をよびさます力がすぐれていますから、この力をつかわないでいるのは、たいへんもったいないことだと思います。

 人の一生で大切にしたい本というのはだれでも一冊はあるはずだと思います。「時間がない。今すぐ選べ」ともし言われたら、私はレイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』を選ぶことにします。

 この本を書き写すときくらい、心が洗われるときはありません。「『自然』と友達になった人」だけが書けるすがすがしい芸術です。

参考
 『センス・オブ・ワンダー』より
 ファンタジーの力
 ミニ・シアターに好感