原発危機と「東大話法」

 ぜひぜひ!多くの方に読んでいただきたい本です。現役東大教授でありながら書かれたというその勇気と、実に真摯(しんし)な内容に突き動かされ、一気に読み終えました。私の胸にずっとわだかまっていたことが明らかになりました!

 この国の政治・経済・社会の中枢は「東大」出身者が担ってきたと言っても過言ではないでしょう。

 すばらしい頭脳、競争力、プライドこれらを併せ持った方々でしょう。

 しかし残念ながらその多くは、エリートであるという意識のもとに「東大話法」という傍観者的で無責任な、欺瞞とも言える思考法とその実践で、この国をむしばんできたというのです。

 それが3.11の原発事故で明らかにされた、と著者の安冨歩(やすとみあゆむ)氏は語ります。

 ・・・言うならば、原子力発電所という恐るべきシステムは、この話法によって出現し、この話法によって暴走し、この話法によって爆発したのです。

 それゆえ私は、東京大学を「東大話法」の呪縛から解放することが、東京大学で禄を食む者としての使命であり、それが原発事故をはじめとする構造的困難に直面する日本社会に貢献する道にほかならない、と思うのです。

 私の職業は学者ですが、この危機の中では、いわゆる学者ぶった議論をチマチマ展開している余裕はありません。それよりも私自身が、この危機をどのように生きるべきかを、考えざるを得ない状態です。本書は、そのために考えたことのまとめです。

 まず東大話法の一例です。(本書では20種類あげています)

 規則2 自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。
 
 規則3 都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする

 規則5 どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す

(クリックで拡大できます)

 私事ですが、昨晩は地元経済界の講演会と新年祝賀会があり、参加してきました。

 講演会のテーマは「自動車産業と大崎地方」という題でした。わが宮城県大衡村に日本有数のトヨタの一大拠点が建設中であり、その産業的、社会的影響うんぬんのお話でした。

 年間生産能力60万台!年間売上6000億、7000人の雇用・・・。

 なんとも大きな巨像が、なんとも小さな村に本社まで構えるという、経済界ではこれ以上はないという嬉しい話題です。

 トヨタの東北復興への思い、それに、私の仕事の中で、最も役に立ちつづけている「トヨタのものづくり思想・手法」

 にも関わらず。。。昨晩はなにか憂鬱になってしまいました。

 これ以上車が増え続けるのか?、こんな大きい工場が来ないと地域は成り立たないのか?、この工場に合わせて巨大なエネルギーの供給基地が必要となっていくのか?、この工場の経済活動に合わせて「成長」「効率化」のお題目を唱え続けるのか?

 もちろんこのような経済活動を全否定するつもりはないんです。

 でも、震災後は何か気持ちの位置がずれてしまって。。。

 地域発展の熱弁をふるう講演者を、熱いまなざしで見つめる自分をふくめた中小零細の経営者たち、議員たち、役所の職員たち・・・。

 妄想ですが、こんな場にばっかしいれば、多くの人がきっと「原発は必要だ」という意見になってしまいそうだな・・・という不快感を感じてしまったんです。

 それは、言葉が未熟な私たちには、話の場所、相手の立場、権威、話し方、そういったことの影響ってかなりあるな〜、と感じたからです。
 
 (トヨタは、朝日新聞が経団連各企業に依頼したアンケートで「原発推進or反対」については「保留」の返事をしていますが)

 そんな思いの今日、『原発危機と「東大話法」』を読みました。

 この本では20の東大話法について、実例を出しながら論理的にその矛盾や欺瞞をあばいています。
 
 原発事故でおなじみの御用学者はもとよりですが、知的エリート層に絶大な人気があるらしい、元NHK原発擁護ブロガー「池田信夫」氏についてかなりのページ数を割いてその欺瞞を指摘しています。

 私もこの方には高性能なソフィストという印象しかありませんでしたので胸がスッとしました。

 さて、ある実在の教授の姿で、東大話法(=東大的人間像)の典型を想像していただきましょう。 

不誠実・バランス感覚・高速事務処理能力

 前章で私は、「東大=ショツカー」仮説を提唱しました。私の友人にも、この間題に気づいた人がいました(Pさんとしましょう)。

 Pさんは、別の大学を出てから、東京大学の世界的に有名な学者(Q教授としましょう)の研究室で、しばらく働いていた人です。そこで目にしたものは、生まれてこのかた、経験したことのない、悪辣なシステムでした。そのシステムの特徴は、研究室を支配するQ教授の、以下のような特性によって構築されている、とPさんは指摘しました。

・底知れない不誠実さ
・抜群のバランス感覚 
・高速事務処理能力

 この場合の「不誠実」とは、良心の呵責の欠如、と言うこともできます。どういうことかといぅと、普通の人間は、何か悪いことをしていたり、あるいは、誰かを搾取して自分のエゴを満たしたりしていれば、なんとなく気持ちが悪くなってきて、途中で嫌になってしまって、悪事を投げ出してしまうのです。これが「良心の呵責」です。

 ところがQ教授には、そういう作用がないのです。どんなにひどいことをやっているとしても、平気の平左で、涼しい顔をしています。より正確に言えば、「良心の呵責」は全く無いわけではないのかもしれませんが、病気になったり体を壊したりするほどではありません。もし本人に聞けば、自分は良心の呵責に苦しんでいるのだ、と言うかもしれませんが、こんなやり方を何十年もやっていて、なおかつ健康体でいられるということは、大したことはないのです。なぜなら、彼のようなことをやっていれば、通常の人であれば、体を壊してしまうからです。

 「バランス感覚」というのは、こういうことです。Q教授は、自分の周囲の人々の心理状態や損得の状態をよく観察していて、自分の悪事が誰かの感情を大きく損ねたり、あるいは多大な損失を負わせたりしないように、いつも注意しており、何か問題が起きそうになつたら、的確に手を打つのです。

 そうやって作り出した「業績」を利用し、高速事務処理能力を用いて「飴玉」を捻出し、自分でしゃぶるとともに、バランスを維持するために他人にもしゃぶらせるのです。こういうことをしていると、普通の人間は心が潰れてしまいます。しかしQ教授は違うのです。それでも心が潰れないという、天性の底知れない不誠実さで、この「低レベル悪事」を、いつまでも続けられるのです。

 これが、私の友人が教えてくれた、ある東大教授の行動パターンでした。その人は、世界的に有名な学者なので、私も知らないわけではありませんでした。それゆえ、その話を、俄には信じられませんでした。しかし、よくよく考えてみてよくよくその教授の行状を思い出してみて、改めて観察し、ようやくすべてではないにせよ、友人の言葉を信じられるようになりました。これは私にとって、ショックな出来事でした。

 しかも、もっとショックなこととがあったのです。一度、そういう目で見てみると、この三つの特性は、この教授に限定されることではない、ということに気づいたのです。それは、東京大学全体に蔓延する傾向、「東大文化」だ、というのが私の印象です。

 徹底的に不誠実で自己中心的でありながら、
 抜群のバランス感覚で人々の好印象を維持し、
 高速事務処理能力で不誠実さを隠蔽する、

というPさんの指摘は、多くの東大関係者のモットーだ、というように私は考えています。

 では、どうしたらよいか?

 ですから、私が本書の読者にお願いしたいことは、東大話法を使っている人を見たら、感心して納得するのではなく、「これは東大話法だ!」とハッキリ認識して、笑っていただきたい、ということです。

 人々が東大話法を聞くたびに、納得するのではなく、笑っていただければ、東大話法を維持している相互依存関係は崩壊します。

 私たちも一緒にただしていくことが必要なことがあります。

 それは、「お上に弱い=権威に弱い=学歴に弱い」これらの「庶民話法?」を克服しなければ(笑)

 詳しく知りたい方は著者のブログをご覧ください。http://anmintei.blog.fc2.com/

参考
 馬鹿、アホ、まぬけ
 とても不思議な「確率論」
 ソクラテスの時代
 アルキメデスの末裔
 ヒトの顔をした危険なロボット
 毛細血管の話