SFが空想でなくなる日

 かつて読んだ名作SFを読み返しながら、もう「SF(空想科学小説)」とは呼べない日が近づいているかもしれない。。。と思いました。
 読み返しているのはこんなSFです。

 オルダス・ハクスリー「すばらしい新世界」、ジョージ・オーウェル「動物農場」「1984年」、フィリップ・K・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」です。

 ハクスリーとオーウェルは40数年ぶりの再読でした。

 デイックの「アンドロイドは・・・」は1977年の出版です。映画史上の名作「ブレードランナー」の原作としても有名です。

 いずれもその内容の深遠なることに、あらためて驚愕します。

 そして、彼らがその小説の中で危惧したであろうことが、今とても現実的なこととして感じられるのです。

 それは人間の考え方や社会の方向性といった点においてですが。

・・・・・・・・・

 「動物農場」の指導者、ブタのナポレオンは、最後は二本足で歩くようになるのですが、北朝鮮の新しいリーダーにそっくりです。

 彼ら指導者(ブタたち)が垂れながすスローガンや、微妙に変えていく声明はまるで原発問題に関する日本政府のやり方そっくりに思えます。

 「1984年」では、橋下政権?の考え方を極端化したら、こういう統制もありうるな、という類似の傾向を感じます。(彼の原発問題に関するスタンスだけは評価していますが)

 「すばらしい新世界」も「1984年」も似ているモチーフがあります。

 それは、カラマーゾフの兄弟における「大審問官」のようなリーダーがいて、彼らは「人間の幸福」を、「人間の自由な思考を制限していく」という「隷従化」「画一化」に求める方向性を強く持っているということです。

 今読んでみると、我がことのように感じられゾクッとします。

・・・・・・・・

 多くの人々が古典などもう読まない、読めない。

 簡単な言葉にしか関心がない、理解できない。

 そんな、言葉が日々貧困になっていくこの頃。

 なぜゾクッとするかといえば、「変に思えるための言葉」がなくなってしまうんじゃないかという不安からです。

 「語彙」を意識的に貧弱化させていくことによる統制の世界を、「1984年」はリアルすぎるくらいに見せてくれます。

 →言葉の大切さ

・・・・・・・・

 さて、ディックのお話をします。

 彼の原作による映画は多数あります。

 私が観たものだけ列挙してもこんなに・・・

 「ブレードランナー」「トータルリコール」「バニラスカイ」「マイノリティーリポート」「ペイチェック」「アジャストメント」

 中でも「ブレードランナー」は傑作です。

 ところが、映画と原作のストーリーはかなり異なるのです。

 映画の脚本家も実にすばらしい!

 ディックの根本的なモチーフを強く理解したうえで、映画にフィットする新たなストーリーにしました。

 原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」と「ブレードランナー」は、それぞれかなり重なってはいるが、別々な芸術作品、哲学的作品として鑑賞するのがよいと思います。

・・・・・・・・

 ここから部分的に引用するのは「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」の冒頭部分です。

 福島原発の事故を経験中の私たちにとって、決して「空想的未来」とは言えない近未来の様子が描かれています。

 リックはそそくさと朝食をしたためたのちー妻との口論で時間を食ってしまったのであるーマウンティバンク社のエイジャックス型「鉛製股袋」つきの外出着に着替え、電気羊が草を「食んで」いる屋上のドーム牧場へとおもむいた。

 そこでは、精巧無比なハードウェアであるその動物が、ビルの住人たちを欺きながら、真にせまった満足げなようすでもぐもぐとあごを動かしていた。

 放射性降下物の充満した朝の灰色の大気は、太陽をかげらせ、彼のまわりですえた息を吐き、鼻孔にまとわりついてくる。

 リックは無意識に、そこから死の汚染を嗅ぎあてようとした。

 まあ、そいつは誇大表現というもんだろうと思いなおしながら、階下の分不相応に広いアパートと合わせて彼の所有になっている芝生の一区画へ歩みよった。

 さしもの最終世界大戦の遺産も、すでにその威力を弱めつつある。

 死の灰に生き残れなかった人びとは、とっくの昔に忘却のかなたへ去り、そして、いまや威力の衰えた灰は、しぶとい生存者たちと対決してその精神と遺伝子を錯乱にみちびいている。

 鉛の股袋をつけていても、灰は−疑問の余地なく−それを透過して、よそへ移住しないかぎり、日々に汚染を蓄積させていく。                       
 これまでのところ、リックは毎月の身体検査で適格者(レギュラー)と太鼓判を押されてきた。

 法律の定める範囲内で生殖を許可された人間である。しかし、サンフランシスコ警察の嘱託医たちによる月例検査で、いつそれがくつがえるかもしれない。

 あまねく存在する灰によって、適格者の中からもたえず特殊者が作りだされていくありさまだ。

 最近のポスターや、テレビCMや、政府からのダイレクト・メールには、きまってこういう文句がはいっている ー 『移住か退化か!選択はきみの手にある!』

 まさにそのとおり、とリックは考えながら、小牧場の柵をあけ、電気羊に近づいた。だが、おれは移住できない。仕事が仕事だからな。

 この近未来は、最終戦争による放射能によって多くの種が絶滅した世界です。

 一番の贅沢は、羊でもネズミでも、ハエでさえ本物の生物でさえあれば、それを飼うこと。

 しかし生物らしきもののほとんどは、見分けが付かないほど精巧な電気仕掛けの人工生物と化してしまっている世界です。

 「その馬を売る気はないか〜」とリックはきいた。

 くそ、馬がいたらどんなにいいだろう。

 いや、馬にかぎらない、なんの動物だっていい。

 ニセモノなんかを飼っていると、だんだん人間がだめになっていくような気がする。

 といっても、社会的な立場からはやむをえずそうするしかない。本物はそれぐらい数がすくない。したがって、現状維持しか方法はない。

 最終戦争はどのようにして始まったのでしょうか?

 かつては数千人の居住者を収容していたこともある、巨大な、がらんとした、崩壊一歩前のビルーその中で、ただ一台のテレビが無人の部屋に宣伝文句をがなりたてている。

 この所有者なき廃屋も、(最終世界大戦)以前には、いっぱしの管理運営がなされていた。

 当時、この土地は、サンフランシスコから高速モノレールでひとまたぎの郊外だった。小鳥が巣をかけた木のように、この半島ぜんたいが、にぎやかな生命と意見と苦情であふれかえっていたものだ。

 だが、抜け目ない家主たちも、いまはすでに天国か植民惑星のどちらかに移住をすませてしまった。たいていは、前者のほうに。つまり、国防総省(ペンタゴン)と、その乙にすました科学的奴隷であるランド・コーポレーションのいさましい予測にもかかわらず、戦争はひどく高価なものについたのである

 そういえば、ランド・コーポレーションがあったのも、ここからさして遠からぬ地点だった。そして、かの戦略研究所もアパートの家主たちにならって、あの世へ旅立ってしまった。だれにも惜しまれることなく。

 第一、もういまでは、なぜ戦争が起こったか、また、どっちが勝ったかーもし勝利者があるとすればだがーそんなことをおぼえている人間はひとりもいない。

 地球表面の大半を汚染した死の灰は、どこかの国のだれかがー戦時中の敵国さえもが−計画的に作りだしたものではなかった。

 第一番に、どういうわけかフクロウが死んでいった。むくむく肥った白い鳥の死骸が庭や街路のあちこちに横たわっているところは、その当時はユーモラスな光景にさえ思えたものである。

 生きているフクロウは、もともと暗くなるまで外へ出てこないのだから、およそ人びとの目にふれる存在ではなかった。中世のペストがその姿を具現したのも、おびただしいネズミの死骸という、これによく似たかたちであったらしい。

 だが、新しい疫病は天降って(あまくだって)きたのだ。

 フクロウのあとには、いうまでもなく、ほかの小鳥たちがつづいたが、もうこのときには謎の現象もその正体が解明されていた。

 ほそぼそとした惑星植民計画は、すでに戦前からはじまっていたけれども、いまや地球が太陽を仰ぎ見ることもかなわない世界となるにおよんで、宇宙植民はまったく新しい段階に突入することになった。

 多くの人、特にエリート的な立場にいる人たちが、「真のリアリスト」にならなければこの世界は現実となるでしょう。いや、すでに現実となりつつありますが。。。

 「真のリアリスト」とはどんな人か?

 それは「常に未来から現在を見ようとする人」であると私は思います。

 いうまでもないことですが、「未来」とは常に「すぐ先の現実」であるからです。