西部劇の「三典型」

 『続・夕陽のガンマン』を何回目かな?また観ました。クリント・イーストウッドは今も昔もカッコイイ!さて気になるのはこの映画の「原題」です。『The Good, the Bad and the Ugly』

 まずはwikipedeiaから映画を紹介。

『続・夕陽のガンマン』(ぞく・ゆうひ のガンマン、原題:Il Buono, il Brutto, il Cattivo、英題:The Good, the Bad and the Ugly)は、イタリア・アメリカ合作映画。1966年にイタリアで、1967年にアメリカで公開された。もっとも有名な西部劇の一つであり、マカロニ・ウェスタンの代表作。セルジオ・レオーネ監督、クリント・イーストウッド主演作品。隠された金貨をめぐって争う三人のガンマンの物語。

原題及び英題は日本語で「善玉、悪玉、卑劣漢」という意味で、映画に登場する三人のガンマンを表している。・・・

 映画のはじまりでこの原題が映ったのを観て「お!やっぱり」と思いました。

 映画の世界も現実の世界もあんまり変わりなし。この世は常に三種類の人間で動いているにちがいない。

 しかもこの西部劇の三種類の人間、名前の印象とは異なり、みな「悪党」であることは同じなのです。

 ですから、こんなふうにも言い換えられます。

 「偽善家、露悪家、日和見家」

 以前のブログにも書きました。→偽善家、露悪家、日和見家

 今日はマカロニウェスタンに触発されましたので、その続編を書いてみようと思います。

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 江戸の昔は「風が吹けば桶屋が儲かる」

 現代社会は「不景気風が吹けば露悪家が儲かる」

 政治の世界では「露悪家」=「右翼」です。

 経済の世界では「露悪家」=「ホリエモン(的人々)」です。

 学問の世界では「露悪家」=「御用学者」です。

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 なにせ単純な論理なので強い、強い。

 しかし、比率としては「日和見家」が一番多いことでしょう。

 とくに経済に関係する度合いが強い人ほど「日和見家」の配分がおおきくなるようです。

 映画の原題では「Ugry」(醜い)とされていますが、実にピッタリですね。

 今や、大企業ほど「理念」なんかお飾りで、「エサ」のあるところにだけ飛んでいくコウモリみたい会社が多いですからね。

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 さて露悪家のお得意なセリフです。

 「自分だけ良くて何が悪い」
 「金を儲けて何が悪い」
 「金をもらって何が悪い」

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 一面真実なのでだれもそれを否定はできません。

 また私たち一人ひとりがすべて「偽善家、露悪家、日和見家」三要素の合体です。案配はそれぞれ違っても。

 なので、不景気で「はやくおいしいもの食いたい!」と思うときにはこの「露悪家」的要素が体に充満し、それがより「露悪」を強調した政治家たちへの共感につながっていくわけです。

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 反対に政治家というものは、はじめは「偽善家」なのですが、すぐに「日和見家」の風見鶏になります。そうしないと当選できないし、党内で生き残れないので。

 やがて、国民の傾向が「露悪」を求めるようになると「露悪家」的要素を鮮明にしてアピールしていきます。

 これが「政界の相対性原理」というもので、これを覆す理論は未だありません。

 また粘着気質で、根っからの愛国者も居ます。彼らはこう思っているのです。

 「安心できるわけがない。あいつの国にも『俺』がいる」と。

 かくして、「無学者、議論に負けず」「声の大きい奴が勝つ」

 ジャングルでサバイバルに生きてきた「生き物」としての本能が、国中に目覚めるのです!

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 これらが私たちの生理であり、これに抗うには、よほどの「想像力」「教養」(特に歴史とか文学とか)が必要になります。

 しかし、風には逆らえません。他のひとを鼓舞する単純な言葉はそこにないからです。

 理解できる人が少ないからです。理解しようとするのはとても面倒だからです。

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 やがて、戦争、災禍、さらなる不景気、このような今よりもっとひどい状況が来ます。それはそうです。どこの国も同じように熱くなるのですから火がつきます。

 その後にしか、露悪家、それに追随する日和見家の世界は終わりません。

 結局、国民は「一時的な気晴らし」をしたがっているだけなのです。

 為政者もそうして「ガス抜き」したり、大事なことから「目をそらせたがっている」だけなんです。

2012.5.1 朝日新聞
「いま、ここにある憲法」より抜粋

 ――憲法を変えないと、政治や社会の現状は本当に変えられないのでしょうか。

 「いま人気を集めている強いリーダーは基本的に右翼です。

 左翼は批判しますが、強いリーダーが出てこないことこそが左翼の問題です。

 日本人がいま理念やビジョンを必要としているのは自明です。

 左翼はそれらを持っていたのに、いつの間にか単なる『突っ込み役』になってしまっている。

 それじゃあ負けますよ。保守的なナショナリストたちの理念そのものは理解できないところも多いですが、理念を出している。これが大事です。

 だから僕も、憲法改正試案というかたちで新しい国家像を提示するのです」
 ――憲法改正を主張する政治家は高揚感を漂わせていますが、東さんはどうでしたか。

 「テンションはあがりますよ。憲法変えるのはやっぱり気持ちがいいものですね。それは間違いない。新しい国のかたちをここに定義するんだみたいな、このワクワク感」

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 「歴史は繰り返す」

 繰り返してもいいから、大事(おおごと)にならないようにするのが「進歩」だと思うんですよ。私は。

 そのためにはこんなことが必要では?

 私たちの、ささやかに残っているはずの「知性」には。

 「致命的なことに到る可能性が高いと本能的に感じることにはブレーキをかけること」

 「単純な言葉をうのみにしないこと。その反対をよく考えること」

 「歴史に学んで、未来を想像すること」

 「自分より子らの未来を思いやること」
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 さ〜!まもなく来ますよ。(ほんとうは臆病な)露悪家軍団とその取り巻き「日和見家」のカーキ色のイナゴの集団が。

 普通、このイナゴたちは原発再稼働を進めたい人たちとも重なっているんですが、今回はもう一派あります。

 右翼傾向+脱原発の政党です。

 もともと「脱原発」は左翼的理念でしたから、「右」と「左」合体のこの政党はまちがいなく飛躍するでしょう。

 もはや「理念は右翼にしかない」(いいか悪いか、近視眼的か否かは別にして)というのが、私たちの不幸のようです。

 理念(=未来)の選択肢がとても少ないという意味において。

 さ〜これから自分一人のレジスタンス。何ができるのだろうか。悩みが始まりそうです。

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 もっとましな世の中になるためには、

 明治の昔に、漱石が『三四郎』で書いたところの「露悪家の仮面をかぶった偽善家」という高度な知性と、

 「想像力豊かな日和見家」が増えないといけないようです。

夏目漱石『三四郎』より

 その時広田さんは急にうんと言って、何か思い出したようである。

 「うん、まだある。この二十世紀になってから妙なのが流行(はや)る。利他本位の内容を利己本位でみたすというむずかしいやり口なんだが、君そんな人に出会ったですか」

 「どんなのです」

 「ほかの言葉でいうと、偽善を行うに露悪をもってする。まだわからないだろうな。ちと説明し方が悪いようだ。――昔の偽善家はね、なんでも人によく思われたいが先に立つんでしょう。

 ところがその反対で、人の感触を害するために、わざわざ偽善をやる。横から見ても縦から見ても、相手には偽善としか思われないようにしむけてゆく。

 相手はむろんいやな心持ちがする。そこで本人の目的は達せられる。偽善を偽善そのままで先方に通用させようとする正直なところが露悪家の特色で、しかも表面上の行為言語はあくまでも善に違いないから、――そら、二位一体というようなことになる。

 この方法を巧妙に用いる者が近来だいぶふえてきたようだ。きわめて神経の鋭敏になった文明人種が、もっとも優美に露悪家になろうとすると、これがいちばんいい方法になる。血を出さなければ人が殺せないというのはずいぶん野蛮な話だからな君、だんだん流行(はや)らなくなる」

参考
 「戦う」と「闘う」
 ヒトラーの秘密