アナログ的人間観

 私が小学生だった頃、「次郎物語」という連続ドラマがテレビで放映されていました。その中にやさしくて人格高潔な先生が出ており、子供ながらに尊敬の念を感じていました。ところが・・・

 ある日別なチャンネルを見たら、その先生が女たらしの悪党役で出ているのです。子供だったので理解ができずショックを受けました。

 その後、皆さんと同じく(?)年の功で、「もやもやしたのが人間」と理解し、自らも「清濁混合のアナログ人間」として生き続けているわけです。

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 しかし世の中は1か0かのデジタル思考があらゆる場面で幅をきかせ、良い人、悪い人、良い国、悪い国などと何でもはっきり分けすぎて対立ばかり生じています。

 そもそも、人は皆自分の境界を持っており、境界以外は異物だと感じているようです。その境界を意識することで、より自分を実感するのでしょう。

 自分以外を異物と感じる人は他人への思いやりが不足し、自分の国以外を異物と感じる人は他国への寛容が不足します。
 
 自分自身さえ異物と感じると自ら命を絶つこともあります。

 最近の凶悪事件は、この境界が異常に狭まっている人が起こしているように思えます。

 境界は狭くなればなるほど孤独感や疎外感とともに過激な自己愛も増大させます。

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 デジタル思考による不毛な対立や不幸な紛争・犯罪を少なくするために、私は「アナログ的人間観」というべきものが必要ではないかと思っています。

 それは、基本的に人は皆同じ素材であり、「違い」と思う境界はあいまいで、環境や考え方で常に変化するものという認識に立つものです。

 そして、そのあいまいな境界を意識して変化させる力こそ人間の持つ貴重な能力であるという人間観です。

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 アナログ的人間観では、対立とは各々が異物と感じる境界の範囲差であるととらえます。

 そこから、異物の排除ではなく境界が生じた原因を探り、その境界を広げたり曖昧にする可能性を求めていきます。

 このような思考習慣は、私たちを対立や傲慢から共存や謙虚の方向に導き、相互理解を推し進めていくことでしょう。

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 私たちは言葉から論理を生みだし、デジタル思考の究極ともいえる科学を育ててきました。そのためデジタル思考こそ絶対であると無意識に刷り込まれています。

 たしかに論理や科学の文明に対する効果は絶大ですが、二者択一という原理から生じる対立は、我々自身の生命をも損なう危険な道具ともなりえます。

 デジタル思考をアクセルとすれば、境界を曖昧に、幅広く、多様な色調にしていくアナログ思考はブレーキといえます。私は、このブレーキこそ人間を人間たらしめるものだと思います。

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 さらにその違いを言うならこうなるでしょう。

 「デジタル思考の欠点は選択肢が極端に少ないことだ。アナログ思考とは選択肢を増やそうと考えることだ」と。

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 そもそも自然の一部にしてアナログ的存在である私たち。

 きれいな夕焼けは、一体どこで色を分けることができるというのでしょうか。