今じゃみんな「仕事」という名でひとくくりです。畑を耕すことも、金で金を買うことも。美しいことも醜いことも。ひとくくりにしてはいけないのでは?
(中川一政)
言葉が貧しいから感性が貧しくなるのか、感性が貧しいから言葉が貧しくなるのか、よくわかりません。
単純な言葉になっていく怖さを日々感じるこの頃です。
ひとくくりなのは「仕事」だけではありません。「エネルギー」という言葉もそうです。
水車のエネルギーも原発のエネルギーも同じ言葉で語られます。そして、その生産量を比べることだけが当たり前と私たちは思っています。
でも、この二つは根本的なところで全く違うものではないでしょうか?
水車のエネルギーと、有害を超えて邪悪な物質を生み出す原発のエネルギーは違った単語で語られるべきだと思います。
食品では「発酵」と「腐敗」を分けているように。
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同じような言葉に「愛」があります。
本来は「渇愛」「熱愛」「情愛」「親愛」「慈愛」とわけるべき言葉を一律に「愛」という言葉でひとくくり。
「愛するあなたを守るために」「愛する国を守るために」も「自然を愛する」「ふるさとを愛する」も同じ「愛」で語られます。
他者を排除して際立たせる「愛」と、他者とつながっていく「愛」とが区別されていません。
ですから、「おまえは国を愛さないのか」と言われてしどろもどろになる人も多いと思うのです。
それは「おまえは私たちの優越性をなぜ主張しないのか」というほうが合っているでしょう。
こういう表現の質問なら、より具体的に答えられることでしょう。
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私たち人間というものは「単純化」と「多様化」のどちらにも魅力を感じる生き物のようです。
科学、特に理数系の学問は究極の「単純性」を追い求めているように思えます。「要素還元主義」というのでしょうか?
政治や経済にもそれと似た傾向があるように思います。できるだけ単純化して制御しやすくしたいという傾向が。
反対に、芸術とかは「多様性」を追い求めます。それはたったひとつだけの価値「独創」を追い求めているからです。
それに加え、他を制御しようという「力」への欲求が少ないこともその理由としてあるでしょう。
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今になって感じる「昔の良さ」というものを、多くの人が無意識に感じています。
その失われたものをさがすこと、それが「単一の言葉」を「本来あるべき数の言葉」に置きかえてくれるのではないでしょうか。
それぞれ違う「仕事」が、それぞれ異なる言葉で表現されるようになったとき、不毛な議論はきっと減っていくことでしょう。
「不毛な議論」とは、「善きこと」「美しきこと」につながる芽を摘むことになる議論です。
何が「善きこと」であるかを知るためには、「未来からの視点」「生き物としての視点」に立つ必要があると思います。
平和
・・・この農業のなかでは、何がおこなわれてきたのだろう。私は、それは「いのち」のやりとりだったのだと思う。
畑では作物という「いのち」を育てる。それを実現させるのは、人間の労働であるとともに、自然の力=自然の「いのち」である。
その作物を人間がいただき、自分たちの「いのち」の源にする。過去から未来へと結ばれていく「いのち」の展開を感じながら、農民は土を耕す。だから、自分たちの仕事が無事であることが、「いのち」の展開が無事であることを意味し、人々は「いのち」の無事としての平和を感じとることができた。
こういう感覚が基礎にあるから、かつては手工業者や職人たちも、「いのち」にこだわったのではなかったか。大工さんたちは木の「いのち」を活かす家づくりをした。鍛冶屋さんは金属の「いのち」を、焼物師は土や炎の「いのち」を、作品のなかに保存しようとした。
その「いのち」が、今日の市場経済の社会では感じられなくなった。パソコンに「いのち」の結晶を感じることがあるだろうか。家のなかにある電気製品も、衣類も、食品さえもが、道具であり、何かの手段であり、お金で買うもの以上の何ものでもなくなった。
消費者の態度が変わっただけではない。それをつくりだす仕事の過程からも、「いのち」のやりとりが感じられなくなったのである。生産者たちは、市場をにらみながら、そこで勝てる商品をいかに効率よくつくるかを争うようになった。
そのとき、ものづくりのなかに、無事な営みを感じ平和を感じることができなくなっていったのだと思う。だから、私たちの社会は、無事でも平和でもない。現実に戦争がおこなわれているから、という理由だけではなく、日々の経済活動も仕事も、無事でも平和でもないからである。
「いのち」をみつめることを仕事のなかでやめたとき、私たちは無事や平和の原点にあるものを捨ててしまった。
ただし、−度だけ、日本の人々はこの歴史の歯車を止めようと決意したときがある。それが敗戦後の日本であった。このとき人々は、平和な仕事、平和な暮らし、平和な社会を希求し、「いのち」のあり方をみつめた。
だがその心情を、高度成長以降の社会が風化させた。その歴史をへて、私たちの気持ちはいま再び、農業などの「いのち」と結ばれた仕事に対する憧れを育みはじめている。今日では、土を耕し、作物を育ててみたいと思う人は、驚くほど多い。市場経済のなかで失ったものを、取り戻したくなったのである。
参考(内山節さんの本を引用しているブログです)
居心地のよいサイズ
「人生の目的は?」と問われて。
先祖のDNAが目覚める
開拓のきっかけとなった本