井上ひさしと漱石の娘

 故井上ひさしさんの娘が、「おやじのせなか」(新聞コラム)に父への憎しみと和解について書いていました。そういえば漱石にも似たようなことがあったな?と本棚を探してみました。
 天才とは大変なものです。頭に魔物が住んでいて、それを外に出さなければ自分が蝕まれていくのです。

 「魔物」というと語弊がありますが、言い換えれば天から賦与された「創造の才能」ということです。

 これを外に出す行為というのが、いわゆる「芸術」と呼ばれるもので、文学や絵や彫刻、音楽あるいは話芸といったものまで幅広くあります。

 魔物を出す過程が苦しければ苦しいほど、出力されたものは純化され人々を感動させます。

 芸術家はこのとき至上の幸福を味わうのですが、ほんのいっときだけです。すぐにつぎの魔物が頭に住みつきます。

 天才の宿命。。。凡才の私はその苦しみを経験することはできませんが、天才の苦しみを想像することはできます。作品と接することによって。

 井上ひさしさんはその魔物との格闘が特に激しかったようです。

 ときには魔物をうまく外に出せず、妻を殴ったりしたこともあるようです。

 そのようなことや奥さんの恋愛問題などで夫婦は離婚し、3人の娘たちは心に傷を負ってしまったようです。

 こういう事件を知っている女性は、それだけで井上ひさしさんを嫌いになっている方も多いようです。それも当然と思う反面、私としては、そこに魔物との格闘という不幸な側面も感じてしまうのです。

 昨日の朝刊から彼の三女、井上麻矢さんの話を紹介しましょう。


朝日新聞2012.6.14

最後に分かり合えた

 父は作家・劇作家の故井上ひさしです。父と娘の関係だったのは18歳までと、亡くなる前の数年間だけ。長く疎遠でした。

 私が18歳の時、両親は離婚し、離婚のいきさつもきちんと説明しないまま、母は家を去り、父はほとんど帰ってこなくなりました。

 それぞれの再婚後も、子どもはほったらかし。それまで不自由なく育てられた私と姉2人は急に取り残され、古里をなくしたような喪失感に苦しみました。私は両親を「絶対に許すものか」と、マッサージ師の資格を取り、自分の力で生きてきました。

 父が亡くなる数年前のことです。20年近く疎遠だったのですが、久しぶりに2人で話し合う機会がありました。

 「あなたは子どもと向き合うことからずっと逃げてきたけど、それはおかしい。父親としての責任をきちんと果たすべきだ」

 そう言って詰め寄りました。

 父は驚いた様子で「君の言う通りだよ。しばらく話さない間に随分大人になったんだね」と。すでに自分も親になっていたからでしょうか。父の言葉を素直に受け入れられました。

 2009年、父に誘われ、こまつ座の経理担当になりました。その半年後に父のがんがわかり、死を悟った父は、私をこまつ座の後継にしようとしました。

 闘病中の170日間は毎晩、スポーツニュースを見終えた午前0時前に電話をしてきました。戯曲の読み方、読むべき本のタイトル、ときには「魯迅はなぜ嫌っていた日本に来たと思う?」などと質問されることもありました。

 すべては後継者を育てるための仕事の話で、父と娘としての会話は一切ありませんでした。「必要とされているのは、娘としてでなく後継者としての私なんだ」と感じました。でも、不満はありません。人生の先輩として、物書きとして、作品にすべてを賭けていた父のすばらしさが分かったからです。

 ずっと反発していたけれど、仕事を通して最後は分かり合えた。幸せな娘だったと思います。

     ◇

 いのうえ・まや 井上ひさしの戯曲を上演する「こまつ座」(東京都台東区)の代表取締役社長に2009年11月に就任。45歳。2児の母。7月に埼玉県で「しみじみ日本・乃木大将」を上演。

 娘さんの最後の言葉に救われる思いがします。。。

 つぎは漱石です。

 本棚から引っ張り出した本は二冊。

 まず、筆子の長女で漱石の孫にあたる半藤末利子(まりこ)さんが著した「漱石の長襦袢」です。


「漱石の長襦袢」より

父からの便り

 ・・・いずれの便りからも、凡帳面で筆まめで子供思いであった漱石の一面を充分に窺い知ることができる。

 しかし実際には筆子と恒子は漱石の思い出イコール恐怖というほど恐ろしい目に遭わされた子供である。つまり二人は周期的に漱石を襲う神経衰弱の最も大きな被害者であったのである。漱石の精神状態の一番不安定な時期に二人は幼少期を過ごした。それでも筆子は、本人に記憶がないのが残念だが、待ち望まれて誕生した初子であったから、生まれてから漱石が英国に発つまでは漱石の一心の寵愛を受けた。

 気の毒なのは漱石の英国留学中に生まれた恒子である。「ロンドンからの手紙」でも書いたが、鬱病が最高潮に達していた時期に初めて逢う赤ん坊を漱石はどうにも愛せなかったらしい。些細なことでムシャクシャする漱石にこづかれたりぶたれたりしたのは筆子とて同じことだったが、何かにつけて漱石は恒子を目の敵にし、ある時はごみを捨てるようにポイッと庭に赤ん坊を放り投げることもあったという。

 だから鏡子は目の色を変えて必死で恒子を守った。そんな鏡子を幼い筆子は「お母様ったら恒子さんばっかり可愛がって、私の本当のお母様なのかしら?」と疑ったこともあったという。

 自らも正気の沙汰とは思えぬ漱石の暴力に耐えねばならなかったが、赤児や幼児にもしものことがあったら、と体を張って擁護する鏡子の心労はいかばかりであったろう。

 「お祖母ちゃま(鏡子)はお祖父ちゃま(漱石)が生きてらした間は決して悪妻なんかではなかったわ。よく一緒に暮らせたって褒めてあげたいわよ」と筆子はいつも鏡子を庇っていた。

 お蔭で筆子と恒子は骨がらみ父にたいする恐怖が身に沁みてしまった。後年漱石の精神状態が落ち着いてきて、妹弟達と四対一の相撲をとっている時も決してまざる気にはなれず、ただ遠巻きに上機嫌の漱石を二人は眺めていただけだったという。

 漱石の気分の非常に穏やかな時期に育った三女の栄子は常に「お父様って本当にお優しかったのよ」とうっとりするような眼差しで漱石を回顧していた。・・・

 つぎに、妻鏡子の口述を長女筆子の夫である松岡譲(ゆずる)が筆録した「漱石の思い出」

 漱石の魔物はすさまじいものです。ロンドン留学時代の精神衰弱、妻鏡子との不仲なども広く知られていることです。

 しかし、鏡子さんの話すところによればそう不仲でもなかったようです。神経衰弱による異常な行動がその原因だったと、この本では語っています。


「漱石の思い出」より
 次女の恒子がようやく三つで、ちょうど赤ん坊ができて私に離れた時なので、ひいひいよく泣くのです。もちろんやかましくもあるのですが、それがひどく神経にさわるとみえて、夜中にでもなんでもひどい目にあわします。一つには私への面当てかと思いましたが、ともかく時々狂的にいじめるのです。

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 ある晩夕飯をたべていますと、子供が歌をうたいました。するとうるさいというが早いかお膳をひっくりかえして書斎に入ってしまいました。あまりのことなので子供たちもびっくりしてべそをかいてしまいます。私も因ってしまいましたが、ほど経てどうしているかしらと書斎をのぞいて見ると、机に頬杖をついてすましていました。

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 このころまではまずまずどうにかよかったのですが、六月の梅雨期ごろからぐんぐん頭が悪くなって、七月に入ってはますます悪くなる一方です。夜中に何が癪(しゃく)にさわるのか、むやみと癇癪(かんしゃく)をおこして、枕と言わず何といわず、手当たりしだいのものをほうり出します。子供が泣いたといっては怒り出しますし、時には何が何やらさっぱりわけがわからないのに、自分一人怒り出しては当たり散らしております。どうにも手がつけられません。

 それでもまだ子供たちが小さかったから、このころは何をされようとまだよかったのですが、これから数年たってこの病気が起こったころには、娘も大きくなっていたので、ほんとうに困ったことが再々ありました。

 どういうわけかもちろん自分の頭の中でいろいろなことを創作して、私などが言わない言葉が耳に聞こえて、それが古いこと新しいことといろいろに連絡して、幻となって眼の前に現われるものらしく、それにどう備えていいのかこっちには見当がつきません。

 そうなりだすと何もかもみんな悪意に取りだすので、私のやることなすことが、話せば話したで、黙っていれば黙っているで、何もかも夏目をいじめ苦しめるためにやってると、こう感じるらしいのです。

 ですからよほど癪にさわるとみえまして、いきなり屏風の陰へ来て「おまえはこの家にいるのはいやなのだが、おれをいらいらさせるためにがんばっているんだろう」などと悪態をついたりなどするのです。

 偉大な作家だから何もかも許されるということではないでしょうが、井上ひさしさんと夏目漱石の二人の家庭生活を記した記事や文章に出会うたび、私は芸術家の抱えた「魔物」について想像し、同情も感じてしまうのです。。。

参考
 夏目漱石の永遠の恋人