「消費税」より「トービン税」に賛成

 どうしてこんな「銭まみれ」の世界になってしまったんでしょう?その原因はまちがいなく「金融グローバル化」にあるでしょう。ならばそこの改善をもっとしっかり考えないといけないのでは?

 いつも「付け」は弱者が払うことになるようです。

 脅かされながら、しぶしぶ。

 「国が破綻しますぞ!社会保障がなくなりますぞ!」

 それで「消費税増税やむなしか。。。」になります。

 そういう選択肢もありとは思いますが、私たちの負担がせっかく増えるんだから、この際もう少し根本的な問題についてあれこれ考えること、他の案を探すことって大事じゃないでしょうか?

 私もみんなも「家畜」かもしれないが、家畜だってたまには「野性」を取りもどさなくちゃ!自分の脳味噌に。

 こんなコラムを読みました。

 第三は、トービン税の実現にある。 1981年にノーベル経済学賞を受賞したジェームス・トービンは、為替投機の抑制のために外国為替取引に対して定率の税を課すトービン税を提案している。毎日36兆円売買される日本円の外国為替に1%の税金をかけるだけで、日本政府は年間132兆円の税収を得ることができるのである。

 現在の国税と地方税を足しても100兆円である。消費税を1%上げても2兆円である。経済の不安定要因の本質は、金融のギャンブルにある。投機を抑制することにより、世界経済は実体経済で動く。市場経済には限界がある。故に、余りにも無謀な投機による市場経済を抑制するトービン税の導入により、日本経済の復興と世界経済の秩序が構築されるのである。日本は余りにも急速に資金を蒸発させたが、トービン税の導入により、それを取り戻すことができるのである。
  →リカード、フリードマン、トービンの視点を活用せよ

 詳しい経済学の話はわかりませんが、ニクソン政権の「変動相場制」移行以来、「金」が「デジタル数字」に変わってしまいました。

 「実物」を「金」で交換する「商人」の世界から、「デジタル数字」を「キーボード」で扱う「ゲーマー」の世界へ様変わり。

 「デジタル数字」は休みなく猛烈な速度で「巨竜」のように全世界を跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)しています。(まるで放射能みたいです。。。)

 行き過ぎた「マネー経済」が現代の様々な重大な危機を生んでいるんだ、と悟らなければ、私たち「家畜」はまもなく「食肉」になってしまうでしょう。

 どうしたらこういう根本問題にメスを入れられるのでしょうかね?

 『エンデの遺言』という本には、もしかしたら「マネーの暴走」を防げたかもしれない、戦後のある「分岐点」のことが書かれていました。


 (晩年のエンデ)

 それは「ケインズ」のヨーロッパと、「ホワイト」のアメリカとの戦いでした。

 結果的に、第二次世界大戦で連合国勝利に最も貢献したアメリカの利益を代表する「ホワイト」案が「ブレトンウッズ」で可決され、現代のあまりいただけない格差拡大の「金融グローバル化」に進んだようです。

『エンデの遺言』より
お金の常識を疑う

 国際通貨制度の改革に関して、1943年に、ケインズはマイナス利子率の国際通貨、バンコールのシステムを提案しました。いわゆる「ケインズ・プラン」ですが、そこでは国際精算同盟の黒字諸国は国際通貨として考えられた「バンコール」建て残高にマイナスの利子率が課され、そのことで対外交易を加速させながら国際収支の均衡維持をはかることが考えられました。この案は無念なことに米国のホワイト案に敗れてしまいました。そうして、私たちは、現在のような異形な姿を示す国際金融秩序のなかにいるわけです。

 アメリカ中心の金融秩序を担う牙城、それが「国際通貨基金(アイエムエフ)」であり「世界銀行」であるようです。

 しかし希望はありそうです。「グローバル」の構造や原理と「ローカル」の構造や原理は共通しているかもしれないからです。

 しかしそこに見られるのは、プラスの利子のシステムによって現在のような国際間の不均衡が生みだされる世界経済は持続するものではなく、マイナスの利子システムが経済の均衡維持と持続的に存続しうる経済を導くという発想です。こうした観念はゲゼルの思想とつながっていますし、地域のレベルで、国のレベルで、そして国際的レベルで、お金のシステムには改革が必要だと考え、いま、ふたたび実践されはじめた地域通貨の理念と共通するものです。

 「利子」というのが考えるべき重要なポイントですが、この本では私たちの「利子に対する錯覚」も指摘しています。

 人は利子を負担させられるのはお金を借りたときだけだと誤解しがちです。実はモノの価格には、ほぼその25%、利子が含まれているといわれています。

 3.11を経た私たちに課せられた課題、それは「根本を考え直す」ことだと思います。

 その拠り所は「生命体として」「人間として」「子供達の未来にとって」であると思います。

 逆に、「会社人として」「今日にとって」は、上の観点がなければ見えないものではないでしょうか?

 →エンデと地域通貨