私たちは一人ひとりがアーティストです。「懐かしいこと」を思い出せるなら。「懐かしいこと」とは引き出しからひっぱり出すものではないようです。それは今、脳のスクリーンに「星座」のように創り出しているもののようです。
昨日『二重らせん』を発見したワトソンとクリックの話を書きました。
福岡伸一さんの著書『動的平衡』に、彼らに関連した興味深い話がありました。
今日はその話を参考にして、あれこれ「脳みそ」について考えてみたいと思います。
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ワトソンとクリック、お二人は正反対の性格だったようです。
お二人のうち、地味でまじめな、より研究者タイプのクリックは、晩年、人類最後の難問に取り組んでいたそうです。
それは「意識のメカニズム」
「人間はどのようにして意識を持ち、なぜそれは時に錯誤を起こすか」
しかし、クリックは2004年88歳で他界しました。
意識の研究は、共同研究者コッホらによって引き継がれ、今もソーク研究所で進行中とのことです。
ちなみにコッホという方は、とてもアーティスティックで猛烈なアップル信者であり、右肩にアップルロゴの入れ墨まで彫っているようです。
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さて、「意識の問題」と切っても切れない「記憶の問題」
科学者たちは、記憶をずっと「ある物質によって保持されている情報」と考え追求してきたようです。
それは「コンピューター」の記憶装置のように、磁気、あるいは化合物の変化として記憶されると考えていました。
(以下囲み記事は『動的平衡』からの引用です)
しかし、このシンプルな記憶モデルは、生命現象を観察すると即座に否定されてしまう。なぜなら、すべての生体分子は常に「合成」と「分解」の流れの中にあり、どんなに特別な分子であっても、遅かれ早かれ「分解」と「更新」の対象となることを免れないからである。
シェーンハイマーは食べ物に含まれる分子が瞬く間に身体の構成成分となり、また次の瞬間にはそれは身体の外へ抜け出していくことを見出し、そのような分子の流れこそが生きていることだと明らかにしていたのである。
・・・記憶分子は見つかっていないのではなく、存在しようがないのである。ヒトの身体を構成している分子は次々と代謝され、新しい分子と入れ替わっている。それは脳細胞といえども例外ではない。
ここからが福岡伸一さんの見解です。
私なりに意訳するとこうです。
「記憶とは、ある刺激によって生起していく、一連のパターン化された神経反応である」
「それは電光掲示板のように、あるいは星座のように、そのつど瞬間的に写し出される映像である」
神経回路は、経験、条件づけ、学習、その他さまざまな刺激と応答の結果として形成される。回路のどこかに刺激が入ってくると、その回路に電気的・化学的な信号が伝わる。信号が繰り返し、回路を流れると、回路はその都度強化される。
神経回路は、いわばクリスマスに飾りつけされたイルミネーションのようなものだ。電気が通ると順番に明かりがともり、それはある星座を形作る。オリオン座、いて座、こぐま座。
あるとき、回路のどこかに刺激が入力される。それは懐かしい匂いかもしれない。あるいはメロディかもしれない。小さなガラスの破片のようなものかもしれない。刺激はその回路を活動電位の波となって伝わり、順番に神経細胞に明かりをともす。
ずっと忘れていたにもかかわらず、回路の形はかつて作られた時と同じ星座となってほの暗い脳内に青白い光をほんの一瞬、発する。
たとえ、個々の神経細胞の中身のタンパク質分子が、合成と分解を受けてすっかり入れ替わっても、細胞と細胞とが形作る回路の形は保持される。
いや、その形すら長い年月のうちには少しづつ変容するかもしれない。しかし、おおよその星座のかたちはそのまま残る。
私はこの文章を読んで考えさせられました。
懐かしい子供の頃の記憶とはいったい何なのだろう?
すべての記憶は、脳というスクリーンにそのつど写し出される光のパターン。
そのスクリーンに現れる光のパターンは、与えられたものではなく、自分で創ってきたパターンかもしれない。
そうすると、「思い出」というものは、自分が創り出す「光の芸術」なのだろうか?
匂いや触感や音、触覚がスクリーンの幕を開ける開演のブザーかもしれない。
「色即是空 空即是色」なのかな。。。やっぱり。