写真はレトロ・タイムマシン

 タイムマシンはすぐそこにあったんです!どんな家にもさりげなく。まさかこれがタイムマシンとは思われずに。それは古い写真です。

(父のカメラと同じ「Mamiya 6」、今でも持っています。この写真はネットから借用)

 さっき、母の十三回忌に東京から来た姉、姪とその孫たちを駅まで送っていきました。

 わが長女の孫も加わり、とても賑やかな二・三日でした。

 昨日の昼は孫たちの面倒見を一時頼まれて、会社をさぼっておじいさんの家(実家)で孫だましをしていました。

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 暑いながらもほんの少し秋の風がとおりはじめた父の寝る二階の六畳間。

 みんなで寝転がっていたら、鴨居の上にはいっぱい、引き伸ばされて額に入った写真が飾られています。

 よく見れば、この孫たちの親がまさにこの孫と同じ年齢のときの写真でした。

 「ほらみんな、上の写真見てごらん。誰だと思う?」

 少しヒントを与えたらすぐに自分の親を見分けて、不思議な顔をしていました。

 「え〜、こんなだったんだ。ここはどこのなの?ばあちゃんはメガネかけていたの?」とか質問攻めです。

 これをきっかけにして、孫たちの親、私たち祖父母、曾祖父母のことなどいろいろ話して聞かせました。

 子供たちは、年寄りも自分たちと同じ年齢の頃があって、自分たちと同じような背格好やしぐさでいたことがとても不思議のようでした。

 しかし、しばらくするとすぐに順応してあれこれ、別な写真やアルバムを探してきます。

 まさに「レトロ・タイムマシン」です。

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 夕食後、父から依頼されたある用事で、小さな金庫の中を確かめることになりました。

 大したものなど入っていない金庫、そこに古いA4ぐらいの茶封筒が二つ入っていました。

 封筒の上には、ひとつには私の名前が、もうひとつには姉の名前が筆で書かれています。

 (いったい何が入っているんだろう?)と、開けてみたら何と!

 私たちが幼少の頃の白黒写真が十数枚づつ、それに小学校の通信簿や作文なんかが入っていました。

 写真を見てしばし感慨にふけりました。

 写真の多くには、幼なじみや級友たちがたくさん写っていました。

 その中に、今は亡き同級生が二人、やんちゃな少年の姿で写っていたのです。。。

 一瞬、昔の情景のあれこれや彼らの声などがよみがえり、胸の中を風が吹いていくような懐かしさと寂しさを感じました。

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 米寿になる私の父は、とても写真好きで、小さい頃の写真をたくさん撮ってくれていました。

 小さい頃から現像した写真をみんなで眺め、さらにアルバムにして機会あるごとに家族や親類で何度も見返したものです。

 そんなことが、私にはきっと幼少時の記憶を保持していくのに役立ったのだと思います。

 幼少時に関わらず、最近まで父は、皆で旅行したり集まったりしたときの写真を引き伸ばして、実家のいろんな場所にかざっています。

 なにげなく壁を見ればそんな写真がいっぱい。

 それは、意図せずに、見る人を過去に誘ってくれていたのです。

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 今はカメラもデジタル化して、昔と比べればはるかに多い枚数を誰でも撮っていることでしょう。

 しかしせっかく撮った写真はメモリーの中にだけ保存され、印画することが減ったために、さりげなく眺める機会はとても少なくなりました。

 それは過去へのタイムトラベルが少なくなるということです。

 過去の思い出が貧しいということは、その人の感性をも貧しくしてしまいます。

 なぜなら、感性とは「記憶」という「種」がないと芽を出せないものだ、と私は思うからです。

 それとも孫たちが大人になる頃には、本当のタイムマシンができて、写真以上にリアルな過去への旅が出来る世界になっているのでしょうかね?