とくれば「歌麿」「北斎」「広重」だ〜、となるわけですが、歴史に残らぬ即興絵師もいたようです。時空トラベラー日向子さんの旅行記に描いてありました。
安永七年九月十四日(晴れ)
蔵前牛頭天王社(くらまえごずてんのうしゃ)
牛頭天王の社で、砂絵師を見た。白い砂を握り、湿った黒い土の上に、小指のすきまから、サラサラと落とす。そうやって、いういろな絵を描く。仕上ると、地面をなでさすって消し、また別の絵を描く。美女が、菩薩が、馬が、舟が、現われては消える。
一瞬を生きるか、氷遠を生きるか。天に鳥、地に蟻。
砂絵師の手元が大きく動くと、楼閣は散って、黒い土になった。
(杉浦日向子『江戸アルキ帖』より)
一瞬の芸術、永遠の芸術。。。
考えさせられます。
砂絵師に空しさはなかったのかと。作品が一瞬で消えてしまうことに。
私たちが日々なすあれこれ。たとえば交わす言葉、つくる料理ですらも、それらの中には「一瞬の芸術」と言えるものがあるかもしれません。
現代は録音も録画もできる時代ですから「一瞬芸」であっても永遠に記録に残すことはできます。
しかし、江戸時代以前、いや写真が発明されるまで、エジソンが蓄音機を発明するまで、一瞬の芸術を留め置く方法はなかったわけです。
わずかに「書物」の言葉として、あるいは「言い伝え」として、その「一瞬の芸術」(の痕跡)は記録されてきたのです。
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ふと思います。
本当は、世の中には「一瞬の芸術」しかないのかもしれないな〜と。
考えてみれば、夕焼けの空も、風のそよぎもみんな自然が織りなす「一瞬の芸術」です。
人だってそう。屈託なき子供たちのあの笑い声だって「一瞬の芸術」と言いたい感じがします。
カンバスに描かれた「永遠の芸術」だって「一瞬の芸術」と同じ。
感動は、「作品」と「作品を観る人」との「スパーク」のような「瞬間的交感」から生じます。
世の中は、一瞬、一瞬のアートのきらめき。
すべてがアーティストであり、アートであるこの世界。
私たちの「倫理」とは、「アート」と同義であるに違いありません。
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支離滅裂、五里霧中のゲージツ論。。。
やっぱり秋だな〜。こんな感傷にふけるなんて。
参考
「あったかギャラリー」建設中!
デザインと経営
(杉浦日向子さん関連)
スーパーマンの涙
江戸のベンチャービジネス
江戸へのタイムトラベラー
杉浦日向子の「ケータイ観」
夏祭り、浴衣、江戸の町