知恵ある友

 『徒然草』にはこんな文章がありました。「良き友に三つあり。物くるる友、医師(くすし)、知恵ある友」。「知恵ある友」という言葉で夭逝した親友のことを思いだします。
 松本竣介の絶筆と、その作品に寄せた舟越保武の「追悼文」を読むたびに、私は親友だった「ナオヤ君」のことを思い出します。

 →一番美しい追悼文

 今日は、しばらく墓参りもご無沙汰している彼に線香を手向ける気持ちで書こうと思います。

知恵ある友


 私の同級生はどういうわけか小中学校の成績順に亡くなっていくようだ・・・三人までそうだった。ナオヤ君もその一人だった。今から十六年前、若いのに高校の指導主事に任じられていたナオヤ君は、自宅で夕食後あっというまに亡くなった。四十二歳という若さだった。過労が引き金となった腎不全が死因らしい。


 高校教師をしているもう一人の親友は、とても憤っていた。「指導主事仲間が殺したんだ!」と。聞けば、「人柄がよく、真面目で親切なナオヤ君にヤバイ仕事をみな押しつけ、激務を続けさせたからだ」と言っていた。職場の内情もナオヤ君のこともよく知っている彼が激昂したのは、やはり本当に近い理由があってのことだったろう。


 ナオヤ君がご両親の故郷山形県置賜から宮城県小牛田町(旧)に引越してきたのは小学校二年生の時だった。あの日、ナオヤ君は先生に私の席の隣に座るようにと言われた。それから彼が中学校三年生で仙台に引っ越しするまで、ずっと仲良しの同級生だった。中学校ではテニス部でペアを組み、私が前衛、彼が後衛だった。私は、練習や学校であれこれおもしろくないことがあると、活発だけど性格がおだやかな彼に八つ当たりをすることもあった。そんな彼でも我慢できないときだってある。とつぜん、とんでもなく強いボールを打ち返して寄こすことがあった。それで私はハッと気づかせられたものだ。


 彼とは高校は違ったが、仲間と一緒に何度も仙台のはずれにある彼の家に泊めてもらった。夜中に皆で近所の小山に登り、星空や遠い仙台の市街地のレースのような明かりを眺めたりしたものだ。高校の時彼はフェンシング部に入り国体選手となった。巨大になった太ももをみんなでよく茶化したことを思い出す。そういえば、「ゾウリムシ」というあだ名を付けたのも私だったが、生物学専攻の彼は大人になってもそのあだ名を気に入っていた。


 社会に出てからも、ナオヤ君やご家族の方々との親しい交流は続いた。お母さんはとても聡明な方で、高校一年生のときには私と彼のお母さんと二人で、仙台で「カラマーゾフの兄弟」の映画を観たことも思い出す。お母さんもロシア文学が好きだったのだ。「大草原の小さな家」のローラのお母さんのような雰囲気の方だった。


 彼との最後の思い出がよみがえる。小学校の同級生で厄年の歳祝いをすることになった。私が発起人で、前年に主だった同級生を集めて一席設けた。すべてのクラスから集めた同級生たちは、卒業以来はじめて会う奴も多かった。典型的な文科系であった私だが、その年に今経営しているコンピューター関係の会社を興したばかりだった。


 久しぶりで会う口の悪い同級生たちは口を揃えてこう言った。「え〜〜!カワがコンピューター?ソフトウェア?、ウソでしょう!」さらに「カワがやってるんじゃ、こわくて使えないっちゃ!」(なんと失礼な。。。それほど文科系だったということだが。。。)


 そのとき、ナオヤ君が言った。「みんな違うよ。俺はカワがこの仕事するのは一番向いていると思う」みんなは、ナオヤ君をいぶかしげに見つめた。ナオヤ君は続けた。「カワはコンピュータのことやソフトのことを全然知らなくてもいいんだ」「どうしてか?カワはコンピューターに何をさせればいいかを誰よりも知ってるからさ」みんな、何も言わなかった。


 ナオヤ君のこの言葉はとても心に響いた。その後、たった一人でほとんど飛び入り営業で開始したこの仕事、私は名刺にこのような文言を印刷した。『パソコンを仕事に活かすお手伝いをする会社です』と。あれからもう二十年、名刺の文言は変えたが、今でもこの言葉を会社の魂にし続けている。


 しみじみ思う。ナオヤ君は小学校のときから私にとって最高の『知恵ある友』だったと。布団の中で目をつむっていると時々思い出す。彼の微笑んだ顔。とても頭が良かった彼が、理科系的なことを私にかみ砕いてやさしく教えてくれる姿・・・一緒に遊んだこと、一緒に本を読んだこと、一緒に運動したこと・・・


 正直、私は死んでも寂しくないと思う。天界で彼と会えるからだ。そしてきっとこう言うだろう。「や〜、ナオヤ君久しぶり!またあれこれ話しできるな!」 彼は、あの、いつもの微笑みをうかべて「待ってたよ」と言ってくれるにちがいない。

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