石垣りん「くらし」

 今も昔も、誰でもが、生きることだけに精一杯の時期がきっとあったはず。それは今でも続いています。多かれ少なかれ。そんな中で、時々偶然に見せつけられる鏡に映った自分。誰もがハッと「何か」に気づく瞬間があったはずです。
 「石垣りん」の詩『くらし』を読みました。

 茨木のり子さんが、とても好きだという一篇です。

 読みおわったあと、心にジ〜ンときます。。。

 自分も、だれもが、こんなふうにして生きてきたんだ、生きているんだと。

 この詩ではまるで飢えた獣のように己を表現していますが、実は背広を着て日々会社に出勤する「会社人としての私たち」を表しているように思えます。

 「生きるために自分を殺して何が悪い」と開き直る自分。

 しかし、そんな生活の中で時折はっと気づかされる「何か」。

 それは、忘れていた「人間としての私」に、自らが気づいた瞬間ではないかと思えるんです。

 「俺はこんなことをしていていいのだろうか?」と。

 その「一瞬」を大事に考えていかなければと思います。

 たとえ今すぐ何かができるわけではないにしても。

石垣りん

く ら し

 食わずには生きてゆけない
 メシを
 野菜を
 肉を
 空気を
 光を
 水を
 親を
 きょうだいを
 師を
 金もこころも
 食わずには生きてこれなかった
 ふくれた腹をかかえ
 口をぬぐえば
 台所にちらばつている
 にんじんのしっぽ
 鳥の骨
 父のはらわた
 四十の日暮れ
 私の目にはじめてあふれる獣の涙

 この詩について茨木のり子さんはこう語っていました。

 「一時間のお経より私には石垣りんの、この短い一篇のほうがありがたいのでした」

 「『くらし』が生き物の持つあさましさをテーマにしながら、読み終えたあと一種の爽快さにひたされるのはなぜなのか。おそらくこの詩の中に浄化装置がしこまれていて、読み手がここを通過するさい、浄められて思いもかけない方角へ送り出されるからだと思います。カタルシス(浄化作用)を与えてくれるか、くれないか、そこが芸術か否かの分かれ目なのです。だから音楽でも美術でも演劇でも、私のきめ手はそれしかありません。」

 <『詩の心を読む』より>
 →石垣りんについて