スパルタの末路

 スポーツ界の体罰事件でニュースは花盛りです。体罰のルーツを探れば、古代ギリシアのスパルタに行き着くのではないでしょうか。
 『137億年の物語』という本を読んでいます。

 506ページもあるとても分厚い歴史啓蒙書ですが、こんなに読みやすい本ははじめてです!

 「宇宙が始まってから今日までの全歴史」を、英国サンデータイムス紙の記者であったクリストファー・ロイド氏が、図や写真も豊富に入れながら、とてもわかりやすく執筆しています。

 彼は5歳と7歳になる二人の子どもがともに11歳になるまで、学校ではなく、家で奥さんと一緒に教育していたらしく、子どもたちに自然科学と歴史を双方向から教える必要にかられたのが、この本をつくるきっかけだったとのことです。

 内容だけでなく紙質もとても工夫されています。

 新聞紙みたいな手触りの紙質がこの本を軽くし、さらにページをめくりやすくしています。ですから寝ながら読んでもとても楽ちんです。

 さて、体罰とスパルタの話です。

 「スパルタ式」という言葉は今でも広く使われ、体罰というのがまさにそれだという認識を多くの人が持っていることでしょう。

 実際にスパルタではどのような事が行われたのか、この本で見ていくことにしましょう。読みやすい文章なので長文でもあまり負担はないと思います。(読みやすいように小見出しを付けました)

スパルタの覇権

 人間の品種改良という過激な考えを実行に移したのが、ギリシア南部のポリス、スパルタだった。スパルタは、紀元前431年から同405年にかけて、周辺のポリスと「ペロポネソス同盟」を結成し、アテナイ率いる「デロス同盟」とのあいだで戦争(ペロポネソス戦争)を繰り広げた。この戦争ほ、将軍リュサンドロスの活躍により、スパルタ側の勝利に終わる。リュサンドロスは、歴史に残る「アイゴスポタモイの海戦」(紀元前404年)でスパルタの艦隊を指揮し、アテナイ艦隊の180隻のうち168隻を撃沈した。スパルタ軍に包囲されたアテナイほ降伏し、その後30年間は、スパルタの王がギリシアの大部分を支配した。

実験的軍事国家

 強国アテナイをも屈服させたこのスパルタは、実験的な新しい方法によって人間の組織化をはかった最初の例である。スパルタは全体主義的な軍事国家の極みだった。スパルタを建国したとされるリュクルゴス(紀元前700年〜同630?年)は、医術、癒し、光、真理をつかさどるギリシアの神アポロンを奉るデルフォイ神殿で、神の啓示を授かったとされている。

 リュクルゴスは、兵士になれそうにない虚弱な赤ん坊は、タイゲトス山の荒れ果てた斜面に捨てて死なせるよう命じた。勇敢な戦士に育てるために、男の子は7歳になると軍の訓練所に送られた。彼らほ、ムチ打ちの儀式で迎えられた。上級生が2列に向かい合って並び、ムチをふるう中を走り抜けるというもので、弱い子はその場で死んでしまうこともあった。これもまた、強い個体を選んで育てるという品種改良の原則に則っている。食事は十分にほ与えられず、盗むことを奨励された。その一方で、盗みで捕まると罰せられた。それは盗みを働いたからではなく、ぶざまにも捕まってしまったからだった。

 スパルタの社会は、スパルタ生まれの支配階級で、戦士となる訓練を積んだ「ホプリタイ」と、征服された先住民の子孫で、農奴の「へイロタイ」とに、はっきり分かれていた。ホプリタイの若者は、訓練の仕上げに、農村地帯に送られ、日が沈んでから出歩くへイロタイを殺すことを命じられた。「クリュプティア」とよぼれるこの訓練は、人を殺すことに慣れさせるとともに、へイロタイに恐怖心を植えつけ、反乱を防ぐというふたつの目的があった。

ヒトラーへの影響

 スパルタの社会は、プラトンのような古代の哲学者たちを感心させただけでなく、1930年代の「ヒトラー・ユーゲント」(ナチスの青少年組織)など、後世の思想にも影響をおよぼした。ヒトラー・ユーゲントでは子どもたちに、個人や家族に対する義務よりも、国家に対する義務のはうが重要だと教え込んだ。

ファランクスが強さの秘密

 ホプリタイにとっては、家族に対する義務よりもポリスの繁栄のはうが重要だった。彼らは「ファランクス」という非常に効果的な戦闘形式を教え込まれた。それは、複数の兵士が盾と槍を重ね合わせて人間の壁になり、縦4列以上に密集して、長方形の陣形を組んで戦うというものだ。笛と陣太鼓に合わせて行進し、敵とぶつかる直前に、突撃態勢をとった。ファランクスを成功させるには、絶対的な忠誠心によって、兵士全員が一丸となることが不可欠だった。盾がひとつでも下がっていると、ちょうど鎖の輪の弱い部分のように、そこから陣形が崩れ、隊全体が危険にさらされたからだ。ファランクスを組んで、後から後から押し寄せてくる、恐れ知らずの戦士たちにかなう敵はいなかった。これがスパルタの得意とする戦い方だった。


人間の品種改良

 スパルタにおける人間の品種改良は、兵士が大人になった後も続いた。武勲をあげた若い兵士は20人もの女性と床をともにする機会を与えられた。この報酬は戦場でのモチベーションをおおいに高めた。逆に、戦場で失敗は許されなかった。盾をなくし、それでも生きておめおめと戻ってくるような兵士は家族から勘当され、死刑を宣告されたのである。

 スパルタでは、女性は他のどのポリスの女性よりも高い社会的地位を与えられていた。スパルタ人は、美しく、知的で、強い女性を育てることで、人類最高の民族を生み出すことができると信じていたからだ。

 男も女も裸のまま暮らし、運動競技大会に備えて、いっしょに訓練を行った。忍耐強さを競う「ディアマスティゴーシス」という過酷なムチ打ちに参加する女性もいた。この儀式は、クジで選んだ人間の生贅をアルテミスに捧げていたのに替えて、リュクルゴスがはじめたもので、女神アルテミスの祭壇で行われた。

スポーツとの親和性

 スパルタの社会が、身体能力と、強靭な人間の育成と、戦争での勝利の上に築かれたものであることを考えると、その近くのオリンピアで、身体能力の限界を試す運動競技大会が開かれるようになったのも当然のように思える。ギリシア神話には、史上初のオリンピック競技場は、12の難業をなしとげたへラクレスが、父ゼウスを称えるために建てたと伝えられている。紀元前6世紀から同5世紀どろには、オリンピック競技はギリシア社会にとって非常に重要な意味を持つようになっていた。各ポリスはプライドをかけて、選りすぐりの選手を参加させ、優勝を勝ちとろうとした。勝者は詩や石像に刻まれ、その栄誉を永遠のものとしたが、何にも勝る最高の栄誉は、オリーブの花冠を与えられることだった。

オリンピックの盛衰

 オリンピック大会はその後も長く続いたが、西暦393年にローマ帝国の皇帝、テオドシウス1世によって廃止された。380年にキリスト教を国教とした皇帝は、オリンピックを野蛮な異教徒の祭典と見なしたのである。しかし、1896年にオリンピックは復活し、今にいたっている。フランス人のピエール・ド・クーベルタン男爵が、世界の若者をスポーツで競わせることで、スポーツへの関心を高め、国家間の交流をはかろうと、その復活を提唱したのがきっかけだった。

スパルタの凋落

 あらゆる帝国がそうであるように、スパルタの覇権もやがて終わった。人間を改造する実験が失敗した根本的な原因は、民衆の支持が十分に得られなかったことと、軍の規模と勢力を維持するために必要な、力と覇気のある男性が、次第に少なくなったことにある。

世界への広がり

 もっとも、スパルタが衰えるよりもずっと前、紀元前380年ごろには、すでにもうひとつの勢力がギリシアの北部に台頭しつつあった。この勢力は、ポリスの独立を終わらせたが、人間社会が自然とどう関わるかについて、古代ギリシア人が出したさまざまな答えを、世界に広める役割も果たした。スパルタが体現した悪夢のような全体主義もそのひとつだったが、民主主義の議論や、科学の体系も、古代ギリシアに生まれ、世界へ広がっていったのだった。

 私はこの章を読みながら思いました。

 人類は古代より現代に到るまで、途切れることなく「暴力の圧倒的な効果」を信じてきたにちがいない。

 そこから生じる思想を極端化すると「スパルタ」に行き着くのだろう。

 それは忌避されているようにみえながら、権力を司る者にとっては、今なお最高の魅力を保っていることだろう。

 次のような単純な論理は私たちに根深く染みついているのではないだろうか。

 勝ちたい→勝てる人間が必要だ→できるだけ多くの→そのような人間を人工的に増やそう→恐怖を与えることが効果的だ→体罰(暴力)は強い人間(国)を育てる方法である

 スポーツに限らず、政治や経済の底部、いや我々意識の深層に色濃く残る呪縛的で強力な思想(宗教?)のように思えます。

 ですから全体主義的、国家主義的傾向の政治家や評論家が体罰反対などと言うのを聞くと、私は強い違和感を覚えるのです。

 人はスパルタの末路(それはナチスの末路とも重なりますが)を知って、「暴力の行き着く先」を知るべきだと思います。

参考
 ヒトラーの秘密
 ソクラテスの時代
 アルキメデスの末裔