「新少林寺」にウルル

 最初は「これもやっぱりか。。。」とつまらなく思って観ていましたが、だんだん深みが出てきて、最後には感動のウルルでした。「新少林寺」という中国映画の話です。
 「尖閣問題」「大気汚染」で、極悪非道の印象に近づきつつある私たちの中国観です。(残念ながら向こうもそう思っていることでしょう)

 「新少林寺」は「少林寺」シリーズの最新作です。(2011年11月公開)

 思い起こせば、最初の「少林寺」はもう30年も前。

 今でもあの主人公のいきいきとした表情、厳しくも包容力ある先生の柔和な目をはっきりと思い出します。

 それから20年も過ぎてから「ブラック・ダイヤモンド」という映画でジェットリーを見ました。

 なんという強さ、落ち着き、そしてふてぶてしさ。。。

 まさか、彼があの少林寺の主人公だっとは。。。なんという変わり様だろう。

 それを知ったのは、何年かたってからのことでした

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 そして「新少林寺」、あの先生が再び老師の役で登場していました。

 だいぶお年を召されたな〜、しかしあの厳しくも柔和な目は、30年前の先生とまったく同じものでした。

 やはり映画は「役者」が最大要素ですね〜。

 あ、そうそう「ジャッキーチェン」もいい味出してました。

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 それにしてもこの「新少林寺」は、今私たちが抱く中国観とは真逆のようなストーリーです。


(主演のアンディ・ラウ)

 仏教(禅)的思想がとても強く、私たち日本人も抵抗なく受け入れることができる内容でした。

 本当は、こんなところに日本も中国も同じ根っこがあるんだろうな〜と感じるんですね。

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 中国人も日本人も自国の歴史、他国の歴史について勉強不足なんじゃないのかな〜

 中国思想といえば「諸子百家」、孔子、老子、荘子、墨子、韓非子、孫子・・・

 そして仏教も中国を通して日本は学んだのです。

 私たち日本人の思想構造の基本を形成してきた、あらゆる思想や故事が中国には存在するわけです。

 その中には「韓信の股くぐり」やら「雌伏雄飛」やら、「忍」に関するものも多いわけです。

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 ところが今の政治(特に中国)は、大衆受けを狙い「忍」を忌避する感じがあります。

 この映画の悪役そっくりの「近代的兵器」に過度に依存した「戦え症候群」です。

 今の世の中は、どの国も映画やメディアの影響が強いせいか、すぐに「観客的ヒロイズム」にはまります。

 まったく、戦う人が自分とは別な人、さらには戦う人も生身じゃなくて鋼鉄の中でコンピューター操作という戦いなので、みんなどこか肉体的感覚において他人事の気分があるのではないでしょうか。

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 さて、「少林寺」のような肉体的武道は、鉄砲だ、大砲だ、戦闘機だ、ミサイルだ、原爆だの近代兵器にはまったく歯が立たないことでしょう。

 だから価値がないのでしょうか?

 そうではない、と「新少林寺」は最後の場面にその思いを込めました。

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 なにゆえに戦いの技を日々過酷に修行している彼らが、強力な武器を持つこと、戦うことを過度に抑制するのか?

 そうしないと失われるものとは何か?

 そうすることによって得られるものとは何か?

 「戦い」なのか「闘い」なのか?

 「抑制」「謙虚」と「勇気」はどのような関係にあるのか?

 褒め過ぎかもしれませんが、時局がらみであれこれ考えさせられた映画でした。