エンデと「シカンダ」

 映画「ネバー・エンディング・ストーリ」の原作はミヒャエル・エンデの『はてしない物語』です。私はかつてこの本で「シカンダ」という宝剣と出会い、とても考えさせられました。それは「武」の本質に近しい気がしたからです。
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 物語の舞台は、現実世界と実は表裏一体となっている世界ファンタージエン。

 現実世界の生き生きとした想像力がファンタージエンのエネルギーでした。

 そのファンタージエンが正体不明の「虚無」におかされ滅亡寸前に。

 二つの世界をつなぐ唯一の通路が『はてしない物語』という表題が付いた本でした。

 物語の呼びかけにこたえて本の世界に入り込んだ臆病小僧のバスチアンと、そこで出会ったアトレーユ。

 二人の少年が巻き込まれてゆく不思議な冒険はどのような結末に?

 この物語の半分以上も過ぎた頃に「シカンダ」の話が出てきます。

 ライオンはゆっくりと荘重な歩みで洞穴の一番暗い隅にいった。そこで何をしているのかバスチアンには見えなかったが、金属のふれあう音が聞こえた。もどってきたグラオーグラマーン(ライオン)は、口に何かくわえていた。そして深く頑をさげてから、それをバスチアンの足もとにおいた。

 一振りの剣だった。

 もっとも、立派な剣には見えなかった。鉄のさやはさびていたし、つかは古い何かの木でできたおもちゃのサーベルに見えた。

 「これに名前をつけてくださいますか?」グラオーグラマーンがたずねた。

 バスチアンはじっと眺め、考えた。

 「シカンダ!」バスチアンはいった。

 その瞬間、剣はするりとさやからぬけてとび、一分たがわずバスチアンの手におさまった。

 見ると刃はきらめく光でできていて、まばゆくて見つめることもできないはどだった。諸刃で、まるで羽毛のように軽かった。

 「その剣は、ずっとあなたさまにと定められておりました。」グラオーグラマーンはいった。

 「あなたさまはわたくしの背に乗って駆け、わたくしの火を飲み、食べ、わたくしの火で湯浴みされました。それをしたものだけが危険なしにふれることができる剣なのです。しかも今、あなたさまは正しい名を与えてくださいました。それでこそこの剣はあなたさまのものです。」 

 「シカンダ」バスチアンはささやくようにいい、剣でゆっくりと空中に弧を描き、火花を散らしてきらめくその光をうっとりと眺めた。「これは魔法の剣なんだろう、ね、そうだろう?」

 「鋼であろうと岩であろうと、ファンタージエン中これに歯むかえるものはありません。けれども、これを力ずくで用いることはなりませぬ。今のようにひとりでに手の中にとびこんでくるときだけ、使ってもよいのです。どんな危険が迫ろうとも、です。これがあなたさまのお手を導き、なすべきことを自らの力でなすでしょう。しかしながら、もしご自身の意志でこれをさやからひきぬかれるならば、ご自身とファンタージエソに大きな禍いがもたらされます。このことをけっしてお忘れにならぬように。」

 「うん、忘れない。」バスチアンは誓った。

 剣がさやにもどった。すると、また古い何の価値もないものに見えた。バスチアンはさやについている革帯を腰にしめた。

 「それでは、ご主人さま、もしお気に召すならば、ごいっしょに砂漠を駆けましょう。」グラオーグラマーンが申し出た。「わたしの背にお乗りください。もう出かけねばなりません!」

 しかしバスチアンは徐々に力の快感におぼれていき、現実世界では臆病小僧だった自分のことなど忘れていくのでした。

 やがて大切な友人アトレーユを自ら抜いたシカンダで切りつけました。

 そして、バスチアンはすべてを失いました。

 あらゆるものを失って悟ったバスチアンは「シカンダ」を封印しました。

 そこから、新生の物語がまたはじまっていくのです。

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 先日、合気道の武道家でもある思想家内田樹さんの著書から、このブログに引用した文章があります。

 その文章はこの「シカンダ」にとても近しい感じがしました。

「武」というものの本質

 自衛隊は「緊急避難」のための「戦力」である。この原則は現在おおかたの国民によって不文律として承認されており、それで十分であると私は考える。自衛のためであれ、暴力はできるだけ発動したくない、発動した場合でもできるだけ限定的なものにとどめたい。国民のほとんど全員はそう考えている。これを「矛盾している」とか「正統性が認められていない」と文句を言う人は法律の趣旨だけでなく、おそらく「武」というものの本質を知らない人である。

 「兵は不祥の器にして、君子の器にあらず。」

 これは老子の言葉である。

 「兵は不祥の器にして、君子の器にあらず。巳むを得ずして而して之を用うれば、恬淡(てんたん)なるを上と為す。勝って而も美とせず。之を美とする者は、是れ人を殺すことを楽しむなり。夫れ人を殺すことを楽しむ者は、則ち以て志を天下に得べからず。」(第三十一章)

 私なりに現代語訳すると老子の言葉はつぎのようになる。

 「軍備は不吉な装備であり、志高い人間の用いるものではない。やむをえず軍備を用いるときはその存在が自己目的化しないことを上策とする。軍事的勝利を得ることはすこしも喜ばしいことではない。軍事的勝利を喜ぶ人間は、いわば殺人を快とする人間である。殺人を快とする者が国際社会においてその企図についての支持者を得ることはありえない。」

 武力は、「それは汚れたものであるから、決して使ってはいけない」という封印とともにある。それが武の本来的なあり方である。「封印されてある」ことのうちに「武」の本質は存する。「大義名分つきで堂々と使える武力」などというものは老子の定義に照らせば「武力」ではない。ただの「暴力」である。

 →好きです!「九条」

 エンデはナチスと闘ったレジスタンスでもありました。その頃16歳でした。

 1945年 16歳の時、疎開した14〜15歳の少年が軍に徴兵され、一日訓練を受けた後、前線に送られ、初日に学友3名が戦死する。ミヒャエルにも召集令状が来たが、彼は令状を破り捨て、ミュンヘンまでシュヴァルツヴァルトの森の中を夜間のみ80km歩いて、疎開していた母の所へ逃亡。その後、近所に住むイエズス会神父の依頼でレジスタンス組織「バイエルン自由行動」の反ナチス運動を手伝い、伝令としてミュンヘンを自転車で駆け回った。(wikipediaより)

 「シカンダ」は、使うべきときにはひとりでに手の中にとびこんでくる。

 「武」もまたそのようなものであるのではないでしょうか。

 どんな子供でも、弱い人でも、女性でも、老人でも、人は誰でも切羽詰まったとき、自らの腕やこぶしで自分自身を守ろうとします。

 私は「シカンダ」は私たち生き物があまねく持っているものではないか?と、ふと考えてしまうのです。

 それは封印された「本能」であって、「道具」として考えるべきものではないのでは?とも。

 ミツバチが敵に針を刺すとき、それは必ず己の「死」を伴っているように。

 エンデの本を読み返しながら、「闘う」ということ、「武」ということの本質について深く考えさせられています。

 そして思うのです。

 私たちにとって大切な言葉は「攻撃」や「防衛」ではなくて「抵抗」ではないかと。

 身体にとっても一番大事なものは「抵抗力」です。

 決して「攻撃力」とか「防衛力」とか言わないですよね。