武士道の「きも」

 高校生の時ある同級生の家へ遊びに行きました。彼の父上は学校の校長先生でしたが、どういうわけかなじみの「おでん屋」でお酒をごちそうしてくれました(時効!)。その日、父上の手術室での思いがけないエピソードを知ることになりました。

 その同級生が私に話してくれたのは、父上の「切腹」体験でした!

 「うちの親父は変わりもんだよ。盲腸の手術するとき、切腹するときの気持ちを知りたいからといって、麻酔かけずに腹切ってもらったらしい」

 「ところがさ、ちょっとメスが入ったとたん、すぐ麻酔してくれ!って叫んだらしいよ。まったく笑っちゃうよな〜」

 その同級生も今ではわが孫が通う小学校の校長先生になっています。

 孫に聞くと、とても面白くて人気があるらしい。さもありなん。

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 こんなことを思い出したのは、一昨日届いたメールのせいでした。

 滋賀県に住む私の同級生が、時々ある方のブログ記事を送ってくれます。

 一昨日届いたのは、そのコラムに対する読者のコメントでした。

 コラムを書いた方がいたく感銘を受け、皆に紹介したものです。

 そこには「武士道」の「きも」について書かれていました。

 一部抜粋して引用させていただきます。

 私は武士道の確立こそが徳川幕藩体制300年の根底を支えたものだと思います。映画や書物等でしか知りませんが、武家の人々の礼節に適った優雅で気品溢れる振る舞い・言葉遣いは賞賛に値し、世界に誇れるものでした。武士道は西洋の騎士道などより遥かに高次元のエリート思想で、人類が過去に創り上げた思想体系では世界最高の道徳律だと思います。

 それはヒエラルキー最上位の武士階級の最終責任のとりかたとして切腹を規定していたからです。

 西洋のノブレス・オブリジェにはこれがありません。このように命を懸けたエリートの責務が明確化されていたからこそ、制度が万人に支持されたのです。つまり、エリートがエリートとして機能していたということです。日本人は当時これほど質の高い制度を創り上げた民族でした。

 その後、世界情勢などの諸事情により、徳川幕藩体制は屈辱の強制開国を受け入れ大政奉還をして明治維新に至ります。維新前後の諸事情はさておき、私が注目するのは、開国間もない明治16年に西洋猿真似の狂乱の鹿鳴館時代を迎えたということです。いかに脱亜入欧とはいえ、あの西南の役の直後です。そこには徳川幕藩体制や西郷隆盛に対する敬意など微塵もうかがえないのです。日本人の変わり身の早さには脱帽です。

 さて、その後万事順調に思えた日本は第二次世界大戦にて敗北に至りますが、この敗戦に於いて戦争を指揮・指導したエリートたちの殆どが責を負って自決していないのです。居たとしても極少数です。国民や部下に玉砕や特攻を奨励・強制した者たちが、エリートとしての最終責任をとろうとはしなかったのです。そこには武士道に基づくエリートとしての矜持など欠片もないのです。

 上が上ですから、下々も同様です。今でも鮮明に覚えてますが、”戦後10年”にも満たないころ、幼かった私は両親にクリスマスの銀座に連れていかれました。

 そこにはいたるところで酒に酔った赤ら顔の男女が米兵達と、三角帽をかぶりクラッカーを鳴らしながら口々に「メリークリスマス」を叫んでいました。クラッカーの音と酔っ払いは、幼い私には脅威でした。私の最初の銀座の記憶です。

 ごく簡単に辿ってしまいましたが、まあ戦後はこんな状態から始まってフクシマに至るわけです。

 フクシマでは上述からの延長で、当然のこととして事故当事者たちの自発的引責はおろか刑事責任の追及もされません。

 これが日本エリートたちの実態であり、日本の実情です。実は日本には最早本物のエリートは存在しません。居るのは学歴エリートと世襲エリートだけです。江戸時代の本物のエリートの面影など微塵もありません。下はどうかというと、上述の家内の親戚たちのような「生きることに意欲旺盛」だけれども鈍感で無関心が大半という実情です。

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 「切腹」という言葉に出会うと、二つの意味で緊張してしまいます。

 ひとつは、その行為自体の「激烈な苦痛」を想像するからです。

 もうひとつは、「殉死」や「憤死」など国家に対する忠誠の行為を想像し、過激な国家主義の恐怖を感じてしまうからです。

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 しかしこの文章では、切腹を高度な「社会システム」としてとらえています。

 その「社会システム」は効率や利益ではなく「倫理」をベースとしています。

 「倫理」とは「人間としての義務と責任」であることでしょう。

 「義務」と「責任」の二つがあって成り立つ「倫理」ですが、「責任」のほうがほぼ骨抜きになってしまっており「倫理」が機能していない。

 それが「現代日本社会の致命的なシステム欠陥」であるいうふうに私は理解しました。

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 あらゆる組織は失敗の最終責任をだれかがとる必要があります。

 そこで「けじめ」をつけられるからこそ、組織も社会も生まれ変わることができます。

 「他もやっていたから」「自分だけが張本人じゃないから」ということとは関係ない、いさぎよい責任の取り方が昔は当たり前でした。

 その究極の信頼の証が「切腹」であったというわけです。

 その過激さは、誰でもできることでは決してないですからね〜

 まさに「切腹」こそが「武士道のきも」であった、といえるのでないでしょうか。

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 さて、何かにつけて「国の誇り」を勇ましく叫ぶ現代の政界経済界のエリートたちに「切腹」同様の覚悟、つまり「倫理」はあるのでしょうか?

 有事の際、自ら死地に赴く覚悟はあるのでしょうか?

 私には、あるとは信じられません。

 それは原発への姿勢を見て確信できます。

 これだけの事故が発生したのに、収束はおろかますます危険を増しているのに、誰も責任をとるどころか、隠蔽し逆噴射しているではありませんか。

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 武士道の「きも」が「切腹」であったように、私たちにとって今一番必要なものは厳しい「掟」ではないでしょうか?

 私たちは今、その大切な「掟」を失おうとしています。

 それは、誰も責任をとらない、誰も責任をとれない事態への歯止めを失ってしまうことになるでしょう。

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 「戦争(殺し合い)以外の方法しか、私たちは選択できない」

 「未来の世代に危険を及ぼさない道具しか、私たちは選択できない」

 もっともっとその方法だけを考え、工夫し続けることが必要ではないでしょうか?

 私たちはきつい「掟」に規定され、それを頑なに守ることによって、今でも「武士」たり得ると思うのです。