針葉樹も広葉樹もそれぞれの魅力があります。それぞれの樹に惹かれる人間がいます。人の美意識にもその二種類がありそうな?
(写真:レイチェル・カーソン「センス・オブ・ワンダー」より)
堺市長選で橋下維新の会が敗れたと今朝の新聞で見ました。
橋下さんはデビューしたてのころはとても若くてイケイケドンドンでした。
そのころはブレア元首相のような元気な牡犬を連想させられました。
が、たかだか一、二年のうちに何とも強ばった権力嗜好(志向ではないんです)の方だと感じてきました。
変なたとえかもしれませんが、この方の考え方の根底にある美意識とは、きっと「針葉樹林」なんだろうな〜〜と、ふと思いました。
この方ばかりではなく、いわゆる「国家」を第一義のように考える(考えざるを得ない)人たちの根底にある美意識もきっと同じなんだろうな〜と思います。
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神社にうっそうとそびえる樹齢何百年もの杉や松は、汚れなき地面に整然と並び立ち、おごそかで閑かで荘厳です。
すべて同じ色、同じ形で天に向かう針葉樹林の林や森は、統一され、制御され、威厳や誇りに満ちているようです。
それと対照的なのが広葉樹林。
奥深き東北の山々のブナ林、里山の低木広葉樹、春は新緑、秋は紅葉。
様々な樹々が無秩序に乱立し、地面にはさまざまな落ち葉や木の実、広葉樹林は多様な生き物のすみかでもあります。
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私たちの社会にもこの二つの傾向があるようです。
どちらが良いとか、悪いとかではありません。
でも、生き物としての私たちが育つことができる場所はどちらでしょう?
多様な生き物の命を育む多様な生態系である広葉樹林的社会を選ばないと、見た目は誇り高く荘厳だが、陽が差さない暗い社会、可能性なき貧しい社会になるのではないでしょうか?
少なくても子どもたちが育つ環境、学ぶ場所は広葉樹林であるべきと私は思います。
私と同じように、教育現場の(人工的な)針葉樹林化に異議を唱えている内田樹さんのブログを引用させていただきます。
「公募校長」の資質について 2013.09.20
橋下市長の強力な政治主導に基づいて、民間から任用した11名の公募校長のうちすでに6名が校長としての適性に問題があることが公的に指摘されている。
・・・この人々がある種の「人間的資質」を共有していたのだとすれば、それは任用者自身の「個性的な人間的資質」を反映していると推論して過たないだろう。
これらのケースを見ると、これら「不適格校長」に共通するのは、「威圧的」「強権的」「暴力的」「性差別的」そして「無責任」ということである。
任用者はおそらくそういうタイプの人間につよい共感を感じるのであろう。
府教育長の通達について 2013.09.19
・・・大阪府は橋下徹知事時代の2011年6月、教職員に君が代の起立斉唱を義務付けた条例を制定。違反した場合は処分の対象とし、12年1月、府教委は各校長に起立斉唱を徹底させる通達を出した。同年3月、当時、府立和泉高(岸和田市)校長だった中原教育長が卒業式で、実際に教員が歌っているかどうか口の動きを教頭にチェックさせた。中原教育長は今年4月、教育長に就任。起立斉唱については「公務員として公の秩序を維持し、誠意ある行動を取れるかどうかという観点で見ていきたい」と話していた。
・・・具体的に考えて欲しい。
例えば、医療の目的は「病気や怪我の人間を適切に癒やすこと」である。
医療に関するあらゆる行動(医療政策から治療方法の選択に至るまで)はその基準に基づいて適否を判定されなければならない。
もし「医師に対する患者の信頼性を維持する」ために「出勤時に医療者全員が『ヒポクラテスの誓い』を唱和することを義務づけ、病院長は唱和しているかどうか口元の動きを現認し、唱和していない医療者を処罰する」ことを全医療機関に通達する当局者がいたら、みなさんはどう思うか。
バカだと思うだろう。
そして、その通達が患者たちの健康回復にどう結びつくのか、その理路を説明して欲しいと言うはずである。
そのとき、そう問われた当局者が「そんな話をしているんじゃない」と言ったら、あなたはどう思うか。
問題は「医師に対する患者の信頼性を維持する」ことであって、患者の健康の話をしているんじゃない、と言ったら、あなたはどう思うか。
たぶん、そういう人間にはできるだけ医療現場には近づいて欲しくないと思うだろう。
教育長がしているのは、それと同じことである。
・・・教員に求められているのは何よりもまず「教育者としての信頼」である。
教育者としての資質の適否についてはさまざまな指標があるが、最終的には「子供たちの市民的成熟に資するところがあったかどうか」という結果によって判定するしかない。
これは30数年教壇にあったものの経験的実感である。
そして、経験から学んだのは、「こうすれば必ず子供たちは市民的に成熟する」という必勝の教育法は存在しないということであった。
あらゆる子供のうちにそれぞれ固有の豊かな資源が潜在している。それが、いつ、どういうきっかけで開花することになるのかはひとりひとり全員違い、かつ予測不能である。
だから、もっとも効率のよい教育方法は「さまざまな教育理念に基づいて、さまざまな教育プログラムを、さまざまな教育技術をもつさまざまな教員が実施すること」になるのである。
子供ができるだけ多様な「トリガー」に触れること。
迂遠だが、この「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」方式以上に効率の良い教育方法を私は知らない。
逆に、もっとも効率の悪い教育方法は「単一の教育理念に基づいて、標準化された教育プログラムを、定式化された教育技術をもつ、均質的な教員が実施すること」である。
この制度は、子供たちの数値的な序列化・格付けにはたいへん効率的であるが、それだけのことである。
子供たちを教育機関が恣意的に序列化してみせることと、子供たち自身のポテンシャルの開花の間には相関がない。