ロシアの民族人形「マトリョーシカ」はとっても愛らしくまた役に立つ工芸品です。入れ子の出し入れに幼児はとっても興味を示すんです。知能教材になりますね。
2001年に私は父と娘二人と四人でロシアのウラジオストクへ観光旅行に行きました。
前年、私の母が脳梗塞で亡くなったのですが、父は母(妻)の仏壇に供えようとマトリョーシカを土産に買ってきました。
それから12年後の先月、わが長女の旦那が、これまた仕事でロシアに行きまして(カバン持ちらしい)、家族にやっぱりマトリョーシカを買ってきました。
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さて、父にとってウラジオストクは太平洋戦争シベリア抑留の地であり、ここの収容所で三年半もの間、強制労働の日々を送ったわけです。
ところがそんな苦しかった思い出の地ではあっても、いや逆にそれだからこそなのか、父は生き生きとして、旅行中その当時覚えた片言のロシア語なんかも口に出てきました。
外のカフェで休んでいた年配のおじさんに「ダバイ、ダバイ」とかいって片言会話をはじめたくらいです。
びっくりしたのは当時収容所があった場所を指さして示せたことです。
それだけこの町は変わっていないということでもありますが。
野菜中心の料理もおいしく、女性はスーパーモデルみたいな方ばっかしで、町自体はりっぱではなかったのですが、とても良い思い出になった旅行でした。
草だらけの空港、「○○温泉」とか「○○教育員会」とか日本語看板がついたままの中古マイクロバスだらけの道路、コンビニより小さなデパート。。。
不思議なことに、とても懐かしい思いがしたものです。
きっと今では街並みも大きく変わったことでしょう。
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マトリョーシカはとっても愛くるしく、日本で言えば「こけし」のような工芸品というか玩具です。
婿どののおみやげ「マトリョーシカ」を見ているうちに、その入れ子構造が「何かと似ているな〜」という思いがしてきました。
びっくりするかもしれませんが、それは「機動戦士ガンダム」です。
強力な鋼鉄製の外皮の中に人間が入り、その外皮と一体化している様子がマトリョーシカの入れ子ととても似ている気がしたのです。
見かけとはまったく関係のない構造上での連想です。
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いったいいつからなのでしょうか。
人間が自らの身体を「鎧(よろい)」で覆い、鎧の強さをわが強さと思うようになったのは。
「鎧」の延長が、車であり、戦車であり、戦闘機であり、戦艦であり、宇宙船であり、そしてガンダム型ロボットです。
共通点は「鎧」そのものを自分と同一視しているという点にあります。
現代ではもっと進化?しました。
典型は今国連でも問題になっている「無人攻撃機」です。
何千キロも離れた快適なデスクで、テレビゲームのように戦闘機の視線と自分の視線を一体化させ、ジョイスティックでミサイルを発射し、破壊殺人後の白煙を見て「Wao!」と快哉を叫びます。
何か違うんじゃないか。。。?と気分が悪くなってきます。
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ガンダムは「目に見える鎧」の延長上にあります。
しかし「目に見えない鎧」もあって、こちらのほうがより現代の病?を象徴しているかもしれません。
「目に見えない鎧」のひとつは「国家」でしょう。
国家の強さに己をゆだねたい、国家という鎧の中でひ弱い自分を強い自分に変えたい、そのような傾向はずいぶん昔からあったこととは思います。
しかし現代の中でそれがこうじると、「目に見える鎧」と「目に見えない鎧」が一体化してしまう点が昔とは異なります。
異なる種類の「鎧」が合体して、人間自らが強力な破壊兵器になってしまう危険性が増したのです。
昔は、国家という「観念的な鎧」を自らのアイデンティーにすりかえる願望を強く持っていたとしても、いざ戦いとなった場合には、己の生の身体でその痛みを引き受けねばなりませんでした。
しかるに現代という時代では、戦いから肉体性を極力排除し、肉体的痛みがない、あるいはどこまでもその痛みを極小化しようとしています。
それはブレーキをなくし歯止めの効かない暴走する車、いや機関車を連想させます。
原爆、原発、際限なく進化凶悪化する電子兵器。。。
もはや人類、いや地球生命体の滅亡にさえつながる時代に入ってしまったようです。
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マトリョーシカのかわいらしい外見と、その入れ子構造によく似た人間の「鎧化」。
それは「愛する者のために」といって同類を殺戮するというような、人類の「愛」と「残酷」の両面を表しているようです。
自分たちの弱さを自覚すればするほど、てっとりばやくその弱さを「国家」などの観念で偽装しようとする「自己欺瞞」に私たちは逃避しがちです。
自らも自己欺瞞の典型であるこわもての政治家はもっと強大な権力を欲して、常にそういう状況を利用してきました。
強き鎧の誘惑をはねのけるためには深い思索が必要です。「群れない」強い意志力も必要です。
残念ながら私たちのほとんどは、その能力が十分ではありません。。。
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ガンダムは日本が誇るアニメ文化の象徴でもあるでしょう。
しかし、アニメと現実はまったく違うものです。
何がどう違うのか、どうして違わないといけないのか、鎧へあこがれる心理は何から来るのか、鎧だらけの社会とはどんなものか?
このような思考を厭わずに継続していくことが「成熟」であり「大人」ということであると私は思うのです。
「幼稚で強そうな国」ほど危険なものはないことでしょう。
なぜなら幼稚な人(その国)は、「他人にとって危険なものは自分にも危険である」ということを知らないからです。
自分を守ろうとして相手も自分も両方破滅させてしまうのです。
これでは何のための科学か、進歩か、文明か、学問かわかりません。。。