『ベルリン・天使の詩』より

 有名な映画と知っていながら、観たのは今度が初めてでした。風邪引きでボーッとしながら観ていたのですが、台詞に魅せられ書き写してしまいました。
 週末はあいにく風邪を引いてしまいました。

 (けがの功名?)ぼんやりした頭にじんわりと薬香がしみこんでくるような、そんな映画と出会いました。

 1987年制作のドイツ・フランス映画『ベルリン・天使の詩』は(ほぼ)モノクロの映画です。

 カラーに切り替わるとき、それは、天使が天使の世界から人間の世界に身を投げたときからです。

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 太古から人間に寄り添い、慈しみ、哀しみさえも人間と共有してきた天使たち。

 それは私たちが想像する愛らしい子供の姿ではなく、黒いコートをまとい、知性的で深い落ちつきと優しさを感じさせる中年の男女でした。

 この映画では、二人の男性天使ダミエルとカシエルの眼で世界を眺め見つめていきます。

 (やがてダミエルは、マリオンへの「純愛」ゆえに人間になろうと。。。)

 映画を観ているというより、私は詩の朗読を聞いているように思いました。

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 深い味わいのある台詞(詩)をぜひ書き留めておきたいと思いました。

 HDD録画はこんな時とても便利です。

 一コマ一コマ、台詞に合わせて再生、一時停止を繰り返し、何編かの詩(台詞)を書き留めました。

 映画のオープニングは、作品中4編も出てくる「子供は子供だった頃」のモノローグから始まります。

 無邪気な子供たちだけは、天使がそばにいることがわかるようで、天使にほほえみかけます。

 子供は子供だった頃

 腕をブラブラさせ

 小川は川になれ

 川は河になれ

 水たまりは 海になれ

 と思った


 子供は子供だった頃

 自分が子供とは知らず

 すべてに魂があり

 魂はひとつと思った


 子供は子供だった頃

 何も考えず

 癖もなにもなく

 あぐらをかいたり

 とびはねたり

 小さな頭に 大きなつむじ

 カメラを向けても

 知らぬ顔

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 広いベルリン図書館は天使たちにとってもお気に入りの場所らしい。

 コートを着た端正な男女の天使たちが館内のそこかしこで自ら安らぎ、また人間達にそっと寄り添い、その思いを感じとっています。

 館内の一角には現代に現れたホメロスが。

 それは実に歳をとった小さな老人。

 大きい机の上で厚い歴史書を繰りながら、独り言のように詩を紡ぎます。絶望的な面持ちで。。。


 世界は黄昏れていくようだが

 私は語り続ける

 歌に支えられ

 物語は 現在の世の混沌に

 足をとられず

 未来に向かう

 幾世紀をも往来する

 かつての

 大いなる物語は もう終わった

 今は 一日一日を思うのみ

 勇壮な戦士や王が

 主人公の物語ではなく

 平和なもののみが

 主人公の物語

 乾燥玉ねぎでもいいし

 沼地の渡り木でもいい

 誰ひとり

 平和の叙事詩を まだ

 うまく物語れないでいる

 なぜ 平和だと

 誰も昂揚することがなく

 物語は生まれにくいというのか

(ここでホメロスはふと天使の気配を感じます)

 諦めろだと?

 私が諦めたのでは

 人類は語り部を失う

 語り部を失うということは

 人類の子供時代もなくなることだ

 そして老人ホメロスは天使とともにポツダム広場へ歩き出します。

 画面は1945年の破壊された広場、街、歩く人々を映し出します。

 同じ場所の現代の風景を時おり交えながら。

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 なんと上質な詩であることでしょう。

 映画を観たのか、詩を読んだのか。。。

 いや、本来「映像」と「詩」は、きっと同じ感性の土壌から生まれたものでしょう。

 区別する必要などないのです。

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 私がこの映画に特に惹かれたわけは「子供は子供だった頃」という詩がたくさん挿入されていたからです。

 次の詩は、アパートの子供部屋に小学生の男の子数人でテレビゲームに興じている場面。

 ロック漬けの兄、怒りを抑える父親、あきらめの心境で一人茶をすする母親、そして子供部屋へと目線は移動していきます。

 子供は子供だった頃

 いつも 不思議だった

 なぜ 僕は僕で君でない?

 なぜ僕はここにいて

 ここにいない


 時の始まりは いつ?

 宇宙の果ては どこ?

 この世で生きるのは

 ただの夢?

 見るもの 聞くもの 嗅ぐものは

 この世の前の幻?


 悪があるって ほんと?

 悪い人がいるって ほんと?

 いったい どんなだった

 僕が僕になる前は?

 僕が僕でなくなった後

 僕は いったい 何になる?

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 私が好きな感性というか視点「子供は子供だった頃」。

 もうひとつ書き記しました。

 恋するマリオンが演じる曲芸を見上げる天使ダミエル。

 彼の横にはサーカスに目が釘付けな少年たち。

 子供は子供だった頃

 ほうれん草や豆やライスが

 苦手だった

 カリフラワーも
 
 今は平気で食べる


 子供は子供だった頃

 一度は他所(よそ)で目覚めた

 今はいつもだ


 昔は沢山の人が美しく見えた

 今はよく見えたら僥倖

 
 昔ははっきりと

 天国が見えた

 今はぼんやり予感するだけ

 
 昔は虚無など考えなかった

 今は虚無におびえる


 子供だった頃
 
 子供は遊びに熱中した

 今は

 あの熱中は

 自分の仕事に

 追われる時だけ
 

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 人間となる道を選んだダミエル。

 愛するマリオンの曲芸の助手をしている。

 天蓋からつるされた太いロープにからみつき演じるマリオン。

 ロープの末端をダミエルがしっかりとつかみ、マリオンを支えている。

 カラーとなっている画面。

 ダミエルのあの端正な顔が、今では生き生きとした感情をたたえる男の顔になっている。

 画面のはずれにふと目を遣れば、そこには親友天使カシエルが座ってダミエルを見守っている。

 そのスポットだけがモノクロのままで。

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 この映画の隠喩がイカします。

 この映画の舞台が、制作当時「ベルリンの壁」がまだ存在し東西に分断されたベルリンであること。

 モノクロとカラーの二つを用いた画面。

 子供の詩と老人の詩ふたつのモノローグ。

 これらは「天界(霊界)」の天使と「地上(現世)」の人間という、同時に存在する二つの世界をほのめかしています。

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 エンディングクレジットには

 すべての

 かつての天使 とくに

 安二郎 フランソワ

 アンドレイにささぐ

 私が感動したわけ、その一つの理由がわかりました。 

 小津安二郎の映画こそが彼の映画の原点だったのです。

 そういえば、やはり小津安二郎信者であるフィンランドのカウリスマキ監督の作品にも同じ匂いを感じました。

 彼の「負け犬三部作」と呼ばれる作品群『浮き雲』『街の灯り』『過去のない男』これらも静かで端正なとてもいい作品でした。

 (『浮き雲』は7,8年前ですが、ネットオークションでビデオを手に入れました。1万円以上もしました。。。)

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 このような映画がもっとあればいいな〜と思います。
 
 今やCGやらおきまりのどんでん返しやら、貧しい感性の映画だらけ。

 見終わったあと、ストーリーを思い出せない。。。

 帰ってから寝ないと疲労がとれない。。。

 文学的熟成のうえで深い余韻を残す映画を撮れる人はもういないのかな〜