天野祐吉「顔八景」

 天野のご隠居は「あんころじい」というブログを遺言に残してくれました。ぱらぱらめくっていたら「北斎漫画」みたいな面白い記事がありました。

(北斎漫画より)

 天野祐吉さんのブログ「天野祐吉のあんころじい」は3.11以前と以後で記事の内容がずいぶん大きく変わりました。

 3.11以後は「原発」に対する憤りがとても強くなってきました。

 原発そのものだけでなく、そのお先棒を担いできた広告や媒体への怒りとともにです。

 同じ業界人としていたたまれなかったのでしょう。

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 そんな天野さんのブログから、3.11の半年前に書かれた軽妙な風刺記事を引用します。

 風刺の対象には事欠かなかったとはいえ、このような洒脱な記事が書けた時代、それはある意味平和で幸せな時代であったといえるかもしれません。

 私たちは、実は「原発(事故)という恐ろしき魔物と隣り合わせに暮らしていた」なんて誰も思いもしませんでしたから。

2010年10月2日,7日

顔八景 [ことばの元気学]



うちとけ顔

だれにでも気を許して、無警戒なうちとけ顔を見せる。真央ちゃんの笑顔には、そんな親近感がある。こういう人がまわりにいると楽しいが、こういう人を恋人にしたら、一日じゅう目が離せないからたいへんだ。もっとも、これは真央ちゃんの外向けのポーズで、現物の真央ちゃんは意外に気むずかしかったりして。



かこち顔

え? わたしですか? わたしは終始一貫、国民のしもべとして、誠実につくしてきたつもりですよ。それが「疑惑の総合商社」だのなんだのとひどいことを言われて、思わぬ不遇をかこつことになってしまった。「歎けとて月やは物を思わするかこち顔なるわが涙かな」の心境ですよ。え? この歌の意味ですか。そんなこと、わかるもんですか、悲しくて。



しかつめ顔

まことしやかな、まじめくさった仮面をかぶらずには、とてもこの商売はできない。そんなしかつめ顔の仮面をかぶりつづけることで、この人は愚民の不安や悩みを解消してきた。言っていることはしょせん「チチンプイプイ」みたいなものだが、呪文が効くわけじゃない。この人の顔がこわくて、不安というイタイイタイがあっちへ飛んでいくのだ。



うかぬ顔

会社でひどい目にあっているお父さんの顔である。ひどい目にあわせるヤツをなぐりとばせばいいのに、この人はうまれつき品がいいので、そんな荒々しいことができない。で、きょうも水没した自民湖の底で、浮かばれぬ顔をしているのだ。がんばれ、お父さん。



          

したり顔

うまくやったというときに、凡人は得意顔になるが、超人はしたり顔をする。うれしさをそう単純に顔に出さないような修練をつづけてきた成果である。もっとも、「したり」という言葉には、「しめた!」という意味と「しまった!」という意味(「これはしたり」のような)があり、最近のこの人は後者の表情を見せることが多い。



のみこみ顔

人を食った、あるいは人をのんだ顔である。ほんらいの意味は、「事情はすべてわかっている」といった顔のことだが、その顔に年季が入ると、ただもう、この人の前に出ると、それだけですべてを見透かされたような気分になり、足がすくんでしまう。げんに、かなりの大物でもそうなるという実証例もある。



何食わぬ顔

そ知らぬ顔である。天丼を食ってもカツカレーを食っても、そんなの食ってないよという顔のできる人で、よほど人生に練れた人でなければこうはいかない。その反対が長嶋茂雄さんのような楽天顔で、楽天型の正反対の野村さんが、楽天の監督を何食わぬ顔で引き受けたあたりはさすがだった。



とぼけ顔

何食わぬ顔のユーモア版。何食わぬ顔と違うトコロは、食ったことを隠しながら食ったことを自分でバラしてしまうトコロだろう。こういう顔が許されるのは、所ジョージや藤村俊二のようなユーモア・センスのある人だけで、カネをもらったのにもらってないというときの政治家のとぼけ顔は、決して許してはならない。



(つづく)

 天野のご隠居さん、あなたのブログはいつ読んでも、どれを読んでも新鮮です。

 当時の世相が鮮やかによみがえります。

 なまえは「あんころじい」でも、ピリリと辛口のブログ、これからも時々読ませていただきます!

 (ご隠居が天界で今描いている「新顔八景」はだれなんだろうな〜?)


  →「天野祐吉のあんころじい」