素顔のお釈迦さま(2)

 中村元著『ゴータマ・ブッダ(釈尊の生涯)』に感化され、ブログに「素顔のお釈迦さま(1)」を書いてからもう二ヶ月。。。そろそろ続編を書こうと思い立ちました。
 私の読書時間は平均すると毎日1時間くらいです。

 寝起きに10分、朝勉10分、昼間に10分、夕方10分、寝る前20分みたいな分割読書です。

 そのつど読む本も違い、同時に読んでいる本は平均して10冊くらいになります。(中には一気読みする本もあります)

 ですから読み終わるまで、下手すると1年くらいかかる本もあるんです。

 そんなわけで続編書くのが遅れました。

 今日はお釈迦さまの晩年、そのあまりに優しき素顔について本から引用したいと思います。 

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 私がお釈迦さまについて書きたいと思ったのは、こんなことがきっかけでした。

2013.10.10「素顔のお釈迦さま(1)」より 

 私は仏教徒です。いや、そうであるらしい?

 小さい頃から曹洞宗の檀家として、多くの人の葬式、法事、お盆、彼岸など、寺やお墓が身近な存在でした。

 「般若心経」は暗誦できます。でも意味はあまりに深遠でいまだによくわかりません。

 十数年前にやはり中村元氏の訳で『スッタニパータ(原始仏教典)』を読んで以来、抽象的な存在だった仏陀が身近に感じられてきました。

 そして今年の8月、偶然古本屋で出会った『ゴータマ・ブッダ(釈尊の生涯)』を読んで、ありありとお釈迦さまと彼が生きた時代をイメージできるようになりました。

 (それもそのはず。著者の中村元氏もまたお釈迦さまのような方でありました →仏陀になった研究者


  生誕から出家、過酷な苦行を行うお釈迦さまの素顔はこちらで。 →素顔のお釈迦さま(1)

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<最後の旅>

 お釈迦さまは80歳で入滅したと伝えられています。

 しかしその臨終は決して平穏なものではありませんでした。

 彼に帰依する鍛冶工チュンダが供した食物によって中毒を起こし、激しい腹痛を伴う病死でありました。

 いったいチュンダとは何者であったのでしょう?

 チュンダは釈尊ならびに弟子たちを招待し得たのであるから富裕な人であったにちがいない。

 しかしインドのカースト社会においては、鍛冶工や金属細工人は賤しい職業と見なされ、蔑視されていた。

 その招待を釈尊は受け入れたのである。ここにわれわれは二つの注目すべき歴史的特徴を認めることができる。

 (1)当時漸く富裕となりつつあったが、社会的に蔑視されていた人々は、新しい精神的な指導者を求めていた

 (2)ゴータマ・ブッダの動きは当時のこの階級的差別打破の要求に答えたものであった。

 続いて、重い病となったお釈迦さまの様子が書かれています。

 ついでゴータマは重い病を患う。

 『さて尊師が鍛冶工の子チュンダの食物を食べられたとき、重い病が起こり、赤い血が迸り出る、死に至らんとする激しい苦痛が生じた。尊師は実に正しく念い、気をおちつけて、悩まされることなく、その苦痛を堪え忍んでいた。さて尊師はアーナンダに告げられた、「さあ、アーナンダよ、われらはクシナーラへ行こう」と。「かしこまりました、尊い方よ。」とアーナンダは答えた。』

 このとき何を食べて中毒になったのか古来異説があるようですが、中村元氏はチュンダの捧げた「きのこ料理」を食べてその毒にあたったと解釈しています。

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<チュンダへの思いやり>

 重い病に耐えながら臨終の地クシナーラへと向かう釈尊と弟子たちの旅。

 そこには鍛冶工チュンダの姿もありました。

 途中疲れ切って臥したお釈迦さまは、弟子たちに語りました。

 その言葉こそが慈愛に満ちた「素顔のお釈迦さま」そのものであると、私は感動しました。

 ゴータマ・ブッダは思いやりの深い人であった。

 チュンダのささげた食物によって釈尊は中毒したのであるから、『誰かが鍛冶工の子チュンダに後悔の念を起こさせるかもしれない。」と思って、彼に心配させないように次のように言え、と伝えさせた。

 「二つの供養の食物に最上の功徳がある。それは、さとりを開いた直後に供養された食物と、チュンダが供養した食物とである。」と。

 みずからは苦痛に悩みながらもチュンダのことを気づかっていたのである。チュンダをかばう思いやりが見られる。

 なんと感動的なことでしょう!

 腹痛をこらえながらお釈迦さまは、自らが中毒したチュンダの食物を、スジャータが捧げてくれた(とされる)乳粥と同等だと話すのです。

 苦行から離れ菩提樹の下で生死の境をさまよいながら悟りを開いたとき、お釈迦さまの命を救ったとされるあの「乳粥」と。

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<仏教を説かなかったお釈迦さま>

 やがてお釈迦さまは臨終を迎えます。悲しむ弟子たちに囲まれつつ。

 亡くなる前、最後の弟子となるスパッダは病む釈尊に強い問いかけをします。

 師の身体を心配する弟子たちがスパッダを遮るのをやめさせて、お釈迦さまは次のように答えました。

 『スパッダよ。わたしは二十九歳で善を求めて出家した。

 スパッダよ私は出家してから五十四年となった。

 正理と法の領域のみを歩んできた。

 これ以外には「道の人」なるものも存在しない。』

 かくしてスパッダは釈尊の最後の弟子となった。

 ここでわれわれは非常に興味ある思想的変革を見出すことができる。

 歴史的人物としてのゴータマはその臨終においてさえも、仏教というものを説かなかった。

 かれの説いたのは、いかなる思想家・宗教家でも歩むべき真実の道である。

 ところが後世の経典作者は右の詩に接続して、仏教という特殊な教えをつくってしまったのである。

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<しめやかな臨終>

 釈尊の亡くなった月日は、実は不明のようです。

 ある経典によればそのとき大地震が起こったとも書かれています。

 おそらく後世になってから釈尊の死を印象づけるためにこういう伝説が流布したのだろうと、この本では書いています。

 経典の説明はこのように一致しないにもかかわらず、ゴータマ・ブッダの死のかもし出した雰囲気は紛うべくもなく、われわれに迫ってくる。

 そこには一点の疑問の余地もない。ゴータマ・ブッダは弟子や信者に見まれられながら、やすらかに息をひきとった。

 それはいささかも曇りや汚れを残さない、しめやかな愛情と親和感にみちた臨終であった。

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<臨終に加わる異分子>

 慈愛に満ちたお釈迦さまでも、いやそれゆえにお釈迦さまを快く思わぬ人はいたようです。

 そのことが経典に書かれているという事実は、逆にお釈迦さまを身近に感じさせてくれます。

 しかしいかなる偉大な宗教家でも、すべての人を心服せしめるということはできなかったらしい。釈尊の臨終にも異分子が加わっていた。

 『そのとき一人の年老いた(修行僧)が、その時機にふさわしからぬことばを発した。

 「やめよ友よ。悲しむな。嘆くな。われらはかの偉大な修行者から解放された。<このことはしてもよい。このことはしてはならない。>といって、われわれは圧迫されていたが、今これからは、われわれは何でも欲することをしよう。また欲しないことをしないであろう。』と。
 大カッサバはこの言葉を聞いてよろこばなかった。』

 私は思わず、憲法をめぐる今の日本を連想してしまいました。。。

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<素顔のお釈迦さま>

 最後はブログのタイトルと同じ言葉にしました。

 中村元著『ゴータマ・ブッダ(釈尊の生涯)』は学術的で詳細な研究書であるにも関わらず、深い知識を持たない私にも、とてもわかりやすく生き生きと釈尊の姿を想像させてくれました。

 中村元氏の文章は淡々としています。

 しかし私には彼のお釈迦さまへの共感がとても深いことを感じ、中村元氏こそ仏陀の最後の弟子に違いないという思いがしてくるのです。

 以上ゴータマの全生涯を通じてみるに、かれの教示のしかたは、弁舌さわやかに人を魅了するのでもなく、また一つの信仰に向かって人を強迫するのでもない。

 異端に対して憤りを発することもない。単調にみえるほど平静な心境をたもって、もの静かに温情をもって人に教えを説く。

 かれは、人づきの良い、とっつき易い人であったらしい。

 『修行者ゴータマは、実に<さあ来なさい><よく来たね>と語る人であり、親しみあることばを語り、喜びをもって接し、しかめ面をしないで、顔色はればれとし、自分のほうから先に話しかける人である』

 その音声ははっきりしていて、すき通って聞こえたらしい。些細なことを語るときにも、非常に重大事を語るときにも、その態度は同様の調子であり、少しも乱れを示していない。

 ひろびろとしたおちついた態度をもって異端をさえも包容してしまう。

 仏教が後世にひろく世界にわたって人間の心のうちに温かい光をともすことができたのは、開祖ゴータマのこの性格に由来するところが多分にあると考えられる

 あ〜〜、このような文章をタイプしていた私はなんと至福の時を過ごしていたことでしょう。。。。

 まるで「写経」をしていたような感じです。

 そして、(お釈迦さまを身近に感じられる)仏教徒でよかったと心底感じたのです。

 ボーディー スバーハ〜〜