天野祐吉「広告の広告」

 天野さん最後の著書『成長から成熟へ』は、やはり成熟した見方の本だな〜と思います。成熟には発想の転換が必要です。そんな「広告」のお話です。
 広告といえば、思い浮かべるのはこんなものでしょう。

 テレビコマーシャル、新聞広告、電車の中吊り広告、チラシ、看板、ホームページ・・・

 ところが天野さんは、こんなもの、こんなことも「広告」なんだと言っています。

天野祐吉『成長から成熟へ』より

広告を広告する

 ついでだから、ここでちょっと休憩をかねて広告を広告させてもらうと、別に広告というのは資本主義に特有の産物じゃありません。神代の昔からありました。

 神話というのはだいたい広告的な働きを持ったもので、「古事記」とか「日本書紀」というのはこの国の成り立ちを広告的に書いたものだし、いまの平和憲法だって、日本の国体を内外に広く広告する働きがあります。戦争なんかしないと宣言した国だというんで、日本は世界中に好意を持たれているし、日本人のアイデンティティにもなっているんじゃないですか。

 古代中国の始皇帝さんが万里の長城をつくったのだって、外敵の侵入を防ぐのだけが目的じゃない。彼の権力の偉大さを敵にも味方にも、あれは誇示する広告だったとぼくは思っていますし、豊臣秀吉さんが後陽成天皇の即位を祝って衆楽第で開いた大イベントだって同じようなものでしょう。

 イエスさんが村はずれの木の下で、足の不自由な老婆の足をさすって治すという奇跡を起こしたり、空海さんが水飢饉の村でボンと杖で地面を叩いて水を湧き出させたなんていうのも、目に見えない神さまや仏さまの力を人びとにわかりやすく広告する行為と言えそうです。

 こうした宗教広告や政治広告のあとから商業広告は生まれてくるのですが、亡くなった杉浦日向子さんによれば、江戸時代の浮世絵の大半、それも役者絵や力士絵や美人の絵は、いまでいうブロマイドみたいなもんで、ほとんどが広告だったそうです。

 一八世綻の江戸は、世界に冠たる広告文化都市で、おでん売りとか金魚売りのような物売りの声の洗練度もすごいものがあるんじゃないかと、つねづねぼくは思っています。金魚売りなんて、「キンギョ〜エ〜キンギョ〜」と、文字にしたら商品名を連呼しているだけですよね。それなのに、あの独特の節回しが、夏の涼しげな縁側のイメージを呼び起こす。その縁側に置かれた金魚鉢の中を泳ぐ金魚の姿を連想させる。すごいもんですね。いまどきのCMソングなんて顔色なしです。

 面白い見方ですね〜。

 広告とは「私はこれですから」と皆に知らせることなんですね。

 「宗教広告」「政治広告」「商業広告」と進化してきたと書いてますが、その次は「人間広告」?

 そうすると女性のお化粧した顔も広告、怖いおんつぁんのイレズミも広告、つまりは全人類全広告になっちゃいますね。

 もっと拡大解釈すると「広告は公告」なりで、企業の財務諸表さえも公告の広告か?なんて妄想はふくらみます。

 さて天野さんのお話の続きです。『私説広告五千年史』(新潮選書)という本の前書きのようです。

 そのへんのことは、『私説広告五千年史』(新潮選書)という本にくわしく書きましたから、興味と暇のある方はぜひ見ていただきたいのですが、その本のまえがきだけでもちょっと読んでください。

 犬がいかがわしい生き物だと、思ったことはありません。猫もそうだし、蟻もそうです。つまり、いかがわしい動物などというのはいないんですね。が、たったひとつだけ、人間というのはかなりいかがわしい生き物だという気がする。もちろん、それは自分も含めての話です。

 それはなぜだろうと考えてみると、やはり「ことば」というものを、それも複雑なシンボル体系としての「ことば」というものを、人間だけが持ってしまったからではないかと思うのです。

 何がいかがわしいって、この「ことば」くらいいかがわしいものはありません。だから昔の人は「不言実行」が大切だと言いました。雄弁は銀だが沈黙は金だと、雄弁より沈黙を上位に置きました。が、「不言実行」とか「沈黙は金」とかいうのも、ことばを使わなければ言えないわけで、つまり、ことばがあるから人問はいろいろ言ったり考えたりすることができる。逆にことばがなければ、人間は人間でなくなつてしまうんですね。

 そう考えると、「人間はことばを使う動物である」という定義は、「人間はいかがわしい動物である」と言いかえても、別にかまわないんじやないかという気がする。人問の歴史は、いかがわしい生き物たちの、いかがわしい所業の歴史と言いかえることもできるでしょう。

 で、人間の持っているそんないかがわしさを、一身に体現しているのが、実は広告というものではないか、とぼくは考えています。ま、芸術や芸能も、所詮は広告と同じですから、それぞれ十分にいかがわしい。が、一〇〇パーセント濃縮還元のいかがわしさを持ったものと言えば、やはり、広告にとどめをさすでしょう。

 だから、広告の歴史を考えることは、人間の歴史そのものを考えることにもなるんじゃないか、少なくとも、人間の歴史の一つの側面を考えることになるんじゃないか、と前々からぼくは思ってきました。

 この本でそのスケッチができたらいいな、と思っているのですが、さて、どうなることやら。なにせ、いかがわしさでは人後に落ちないぼくの話ですから、マユにツバをたっぷりつけて、つきあってもらえればと思います。

 念のために言っておきますが、ぼくはいかがわしいものやいかがわしいことが大好きです。ということは、人間が大好きだという意味です。

 というわけで、もともと広告というものを、ぼくはとても人間的なものと思っているのですが、これを資本主義が利用しはじめたことから、広告はかなり変わってきました。

 それも、初期の身の丈サイズの資本主義のころはよかったのですが、大量生産・大量消費の歯車を強引にまわすための道具として使われ始めると、広告本来のいかがわしさから人間的な匂いが消え、もっともらしい顔つきとまことしやかな詐術師の口ぶりだけが前面に出てくるようになります。

 そんな広告の洪水の中にいると、まったくうんざりしてくる。あるいはいらいらしてくる。で、だんだんに広告不感症になっていきます。がそれでも広告は、意識下に働きかけてきたりするから油断できません。

 このあと、「もちろん、中には人間くさいすぐれた広告もまれにあります」と続きますが、それはどんなものかは、本を読んでお確かめください。

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 エントロピー増大の法則ゆえか、この世はゴミまみれ、劣化、無秩序への流れしかないようです。

 私たちにできる最善は、ゴミをさらに増やすことではなくて、ゴミを減らそうとする運動、つまり川の流れへの逆行でしょう。

 現状維持や、過去を振り返るということを退化と思う人は多いと思います。

 しかし私は、人間の生命活動というのは「エントロピー増大の法則」への絶えまなき抵抗と思っているんです。

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 抵抗とはいっても、やはり川の流れにどうしてもあらがえず下流へと流されていくわけです。

 しかし、上流へ向かおうとする一見無駄な運動にこそ人間的な価値はあると思うのです。

 川の流れに逆らうことは己の身体性を実感することです。

 さらにその様子を見た人も「失った身体感覚」にふと気づき、自分自身の「来し方」を思い出す。

 つまり自分自身の「アイデンティティ」を実感すると思うのです。

 私はそれこそが「劣化」に抵抗できる「野性」というものだと思うのです。(「野性」は「野蛮」ではありません)

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 流れに抵抗する「野性」というものは「反骨」と言い換えることもできると思います。

 ですから、私が天野さんなら「すぐれた広告」とは「反骨的広告」であるといいますね。(「野性的広告」でもいいですね)

 同じように、私は「反骨的人間」が大好きです。

 極論を言うと、真の変革(=エントロピーの減少)は反骨からしか生じないと思っています。

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 ガリレオやダーウィンは「反骨科学」、ピカソは「反骨芸術」だったといえるかもしれません。

 反骨パイオニアに共感する反骨者が多くなると、いつのまにか川には支流ができ、いつしか支流が本流に変わっていくのです。

 反骨を忌避する社会、反骨を許さぬ社会、それは政治的には「全体主義」「国家主義」とよばれる「野性乏しき劣化した社会」へと加速していくことでしょう。

 世界の多様で豊かな可能性を失わないために、私たち一人一人は、あえて(できるかぎり)「反骨」「野性」の道を選択すべきと私は思うのです。