のんのんばあの死

 妖怪漫画の第一人者「水木しげる」の原点は少年時代にありました。彼は「のんのんばあ」といっしょに、お化けや妖怪などの住む目に見えない世界をさまよっていたのです。
 昨日のブログで「つげ義春」のことを書きました。

 彼は一時期水木しげるさんのアシスタントをしていました。

 絵のタッチや画力にも共通点があるように思います。

 その連想と一昨日亡くなった同級生のことが重なり、水木しげるさんの本をふと本棚から取り出していました。

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 『のんのんばあとオレ』は水木しげるさんの幼少年時代の思い出アルバムです。

 彼は幼少の頃は知恵遅れじゃないかと思われた子だったようです。(ユニークすぎたせい?)

 しかし絵の才能や工作は小さい頃からぬきんでていました。

 小学校中学年にもなると水泳や戦争ごっこが得意なガキ大将となり、私にとっても懐かしい様々な遊びを日々工夫していました。

 当時のことを彼はこの本で「たのしみが多すぎて、勉強どころではなかった」と語っています。

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 彼の家の近くには一人暮らしのばあさま「のんのんばあ」が住んでいました。

 「のんのんばあ」は水木少年にお化けや妖怪のことを、それはそれは具体的に話し聞かせてくれました。

 その頃の体験が彼の漫画の原点となったのでした。

 本から、「のんのんばあ」が亡くなったときの様子を抜き出してみます。

のんのんばあの死

 当時の小学校は、昼めしは昼休みに家へ帰って食う者が多かった。オレも、家へ帰って昼めしを食い、また学校へもどるというやりかただった。もっとも、冬は寒いから弁当を持っていった。

 ある日、オレたち兄弟三人は、昼めしを食って学校へもどろうとしていた。

 オレが五年生のときだった。

 のんのんばあの家の前を通りかかると、のんのんばあの親類のばあさんがよびとめた。

 半年ばかり前から、母に、のんのんばあのところに行ってはいかんといわれていたので、すこし変な感じだった。

 のんのんばあは肺病(結核のこと。戦後すぐまでは不治の病気とされていた)の人の看護人をして生活していたのだが、それがうつってしまったのだ。

 「こっちへござっしやい」と、のんのんばあの寝ているきたない四畳半に案内した。

 「ああ、ようきたなあ」のんのんばあは小さな声でいい、

 「のんのんばあは死ぬうだぞ」と悲しそうにいうころには、涙で声にならなかった。

 三人ほうなだれて聞いていたが、なにもいえなかった。

 ちょっとでもしやべると涙がふき出しそうな気がして、三人とも口をへの字にしてじ一っとガマンしていたのだ。

 親類のばあさんは、「こーでよかった、こーでよかった」といって、オレたちを外へつれ出した。

 これが、けっきょく、のんのんばあとのさいごになった。

 三人はだまって学校へもどった。胸のうちはとても悲しくて、わけのわからない不安でどきどきしていた。

 学校では教わらない、さまざまなことを教えてくれたこの名もないばあさんは、こうして死んだ。

 その死は、餓死したという感じのみじめな死だったようにおもえる。

 のんのんばあの思い出とともに、幼少期の裏日本の暮らしの様子が水木しげるさんに蘇ってきます。

 おやじからはのんのんばあの若いころの話を聞いた。

 二十歳ごろから女中にきた話、炊事や子守りをした話、ぐうたらな男と駆け落ちした話、またもどってきた話、かわいそうにおもったオレのじいさんが、当時の一二〇円で家を建ててやった話。

 それと、オレの見てきた晩年ののんのんばあをつなぎあわせてみると、戦前の裏日本の片すみで生活した人びとの平均的なすがたが描けるような気もする。

 オレは子どもだったが、子どもなら子どもなりに、こういうことがわかるのだった。

 オレがもっと幼かったころも、海辺で、「末の子はモバをとらせたさら(海草をとらせてしまったんだよ)」というような中年の婦人の話を聞いたことがあった。

 子どもながらにそういう話を聞き、さらに仲間どうしの断片的な話(たとえば、死んだ馬車屋の松ちゃんの話によれば、赤んぼうは小さな俵に入れて海に流すという)から間引というものを知る。

 間引というのは、子どもが多くて養えないとき、生まれたばかりの赤子を殺すことだ。

 また、石炭かつぎと称する港の最下層労働者は、死ぬ前日まで働いていた。

 船の遭難で死ぬ人も多かった。

 オトの兄の豊は、家が貧しかったので、小学校五年のときに船のめし炊きになった。

 十数トンの漁船の五、六人の乗員のめしを炊くのだ。小さな船とわずかな乗員とで、ウラジオストックあたりまで出かける。小学校五年生には苦しい。

 船に乗る日の朝だった。豊は、船のめし炊きはいやだ、陸の上ならなんでもする、と、泣きながらダダをこねていた。おやじは薪で豊をなぐりつけ、豊は泣く泣く船に乗った。

 そして、そのあくる日の夕がた、嵐にあって死んだ。

 死んでも死体はないから、家族はおりにふれ海辺で坊さんに拝んでもらっていた。

 そんな時代でもあり、貧しい地方でもあった。

 最後に「のんのんばあ」とその時代を、水木さんらしいさりげない表現で偲んでいます。

 まるで追悼するかのように。

 古くからの信仰や習俗が残るのもむりはなかったろう。

 のんのんばあの信仰は、わけのわからない奇妙な信仰だったが、本人にとっては重要なものであったことにはまちがいない。

 「転生」ということばがあるが、それは、亡くなった人の心が、ほかの人に宿り、生きつづけることだとすると、オレはいまでも、のんのんばあの心が、オレに宿り生きつづけているような気がしてならない。

 オレはまた次のオレの「転生者」に「妖怪ってなんだろう」と伝えるだろう。

 そのようにして何百年もたったとき、きっと妖怪の正体もわかるようになっていることだろう。

 そして、いまだに、たえず「妖怪ってなんだろう」という疑問につきまとわれているのも、のんのんばあの心のせいなのかもしれない。

 「死」というものは寂しく悲しい定めではありますが、「死」ほど私たちに大切なものを教え与えてくれるものはないように思えます。

参考
 幻想芸術家「水木しげる」
 水木しげる「福島原発の闇」
 マンガ家の一日