原始的新聞記者

 先日、日中の気温が10度くらいまで上がりました。とても暑くて車の窓を開けて走りました。暑さ寒さにいつのまにか体って慣れてしまうんですね〜。
 少し前の話になりますが、先頃の参議院選挙で当選したある議員に、某テレビのワイドショーキャスターがこんなことを言ってつっかかっていました。

 「原発を否定して江戸時代に帰れっていうんですか?」

 この言については(あきれて)何にも話すことはありません。

 それより私なんか「江戸時代でもいいんじゃない?」って思ってしまうんですがね。

 3.11で無電気生活を10日ほど実体験し、さらに杉浦日向子さん、石川英輔さん、田中優子さんの江戸時代本を愛読しているせいでしょうかね。

 さて、天下の大新聞社にも私と似たような感性の記者がいます。

 自ら実験台となって「超省エネ生活」を続けている女性です。 

 「朝日新聞」ってインテリっぽい人やエリートっぽい人しかいないと思ってましたが、この方は野性的かつ原始的な方ですね(笑)

 こういう記者さんをもっともっと増やせば読者も増えるんじゃないのかな〜

朝日新聞2014.1.23

(社説余滴)やみつき「暖房ゼロ生活」 稲垣えみ子

 列島はいま、震災後初の原発ゼロの冬。私にとっては節電を機に「暖房ゼロ生活」を始めて3度目の冬である。

 エアコンをつけないのはもちろんコタツも電気毛布もない。知人には「凍死するよ」と心配され、離れて暮らす親も気が気ではないようだ。

 もともと、寒さはめっぽう苦手である。子どものころ冷たい布団に入るとガタガタ震えて眠れず、電気毛布が売り出されたときは何と偉大な発明かと心から感動した。夏はめったにつけないエアコンも冬はぜいたくに使い、温風に豊かさをかみしめていた。

 だから今の生活は、自分でも信じられない。案外あっさりと、寒さをしのぐ方法をみつけてしまったのだ。

 秘密兵器は「湯たんぽ」である。太ももの上に置き、大きいひざかけをかける。これだけで十分暖かい。寝る前には湯たんぽを布団の腰の位置に入れておき、布団に入るとき足元に移す。朝までぬくぬくだ。電気毛布よりずっと前に、人類はこんな偉大な発明をしていたのである。

 部屋は冷たい。息が白いこともある。でも自分が温かければ案外どうってことない。

 不思議なのは、こんな暮らしを始めてから、あれほど苦手だった寒さがむしろ気にならなくなったことだ。

 暖房に頼っていたころ、寒さは全面的に排除すべき敵であった。暖房をやめると、その敵と共存しなくてはいけない。そうなると、敵の中になんとか「よいところ」を見つけるしかない。それはたとえば、こんなことだ。

 寒い外から首をすくめて帰宅すると、誰もいない家でも少しだけ暖かい。この小さな幸せを胸に台所へ向かい、湯を沸かす。火と蒸気でまた少し暖かくなる。錫(すず)のチロリに日本酒を満たし、湯で燗(かん)をつける。十分熱くなったところでぽってりとした猪口(ちょこ)に注ぎ、そっと口をつける。

 このうまさといったら! 暖房の利いた部屋で、これほどの幸福は味わえまい。

 私たちは経済成長とともに「ある」幸せを求めてきた。金がある。電気がある。暖房がある。ああ幸せ! それに慣れると「ない」ことを恐れるようになる。でも実は、「ない」中にも小さな幸せは無限に隠れているのだ。

 そう気づいたとき、恐れは去り、何とも言えぬ自由な気持ちがわき上がってくる。

 まあ早く春が来て欲しいですけどね。その待ち遠しさもまた、いとおかし。

 私も「湯たんぽ」愛好者です。

 布団に入れておいた湯たんぽのほんわかとした温かさ、もう心は天国です。

 湯たんぽは決して他の暖房器具の代用とか非常用とかではありません。

 湯たんぽならではの「独特な温かさ」をもった独創暖房器具です。

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 こたつや湯たんぽ、火鉢やいろり、くどや七輪。。。

 な〜に江戸時代まで帰らなくたって、私たちの年代なら小さい頃はそれらを普通に使っていた時代でしたよ。

 それにキャンプとかの不自由生活って、野生がよみがえるようで楽しかったじゃないですか。

 不自由を求めることって、ある意味「贅沢」な楽しみだと私は思うんですよ。

 (もちろん年寄りの冷や水は逆効果なので、「極端は避けてほどほどに」がいいと思いますが)

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 冒頭のテレビキャスターさんは、なんでそんなに怖れるんでしょうかね〜?

 かえってかわいそうだな〜。

 稲垣記者が言うように「『ない』中にある無限の小さな幸せ」を知ることができないんですから。

 →電気は貴重品

 →やせ我慢、もう一人