散れば咲きして百日紅

 毎日ブログを書きながら思うのは漫画家の偉大さです。何千というストーリーを考え、何万何十万という絵を描き続ける人々です。まるで求道者のように思えます。

「百日紅(さるすべり)の木」

 こんなブログでさえ毎日書いているとけっこうシンドイ日もあります。

 それでもなぜ書き続けているのかといえば、ズバリ「修行」です。

 ところが、漫画家という職業の人は私の何百倍も大変な創造を日々続けています。

 手塚治虫、藤子不二雄、水木しげるなど有名な漫画家はいわずもがな。

 無名の漫画家だって、漫画を職業にするならば、量産につぐ量産をし続けられる気力、体力、創造力が必要です。

 私には、彼らがトップアスリートのような天与の能力を持ち、超人的な修行に耐え抜く求道者のように見えてしまうのです。


(ある日の手塚治虫)

  →ブラックジャック創作秘話

・・・・・・・・

 最近、私は漫画を単純に無邪気に読みとばすことができなくなってしまいました。

 どのようにしてストーリーを構想したのか、デテイルを考えたのか、どれほどの時間をかけてこの一コマを描いたのか。。。

 一コマごとに、その裏に隠れた作者の「苦悩」や「汗」を感じてしまうのです。

  →マンガ家の一日

 歴史を振り返ってみれば、江戸時代の「北斎」こそが漫画家の典型のようです。

  →アニメの元祖「葛飾北斎」

 そして私には、現代の漫画家がみな「北斎」の弟子に見えるのです。

・・・・・・・・

 杉浦日向子さんが過去に『漫画サンデー』に連載していた「百日紅(さるすべり)」という漫画は、その北斎を主人公にしたものです。

 最近寝床で読んでますが、北斎はじめ日向子さん、漫画家、いや天才的なアーティストが背負う「創造の業(ごう)」を強く感じます。

 「創造の業(ごう)」、それは「めくるめく喜び」と「シーシュポスの悲しみ」、ふたつを併せ持った「芸術家の宿命」のように思えます。

 日向子さんが漫画につけたタイトル「百日紅」こそ、天才アーティストの宿命を言い表して過ぐるものは他にありません。


(北斎と三女お栄)

 夢枕獏さんがまさにそのことを、この本の「解説」で書いています。

北斎に乾杯を

夢枕 獏

 本書のタイトル『百日紅(さるすべり)』には、もちろん意味がある。

 作者の杉浦日向子が、実業之日本社版『百日紅(一)』(一九八五年初刊)の中で、次のように書いている。

 散れば咲き 散れば咲きして 百日紅

 とは、江戸の女流歌人、加賀千代女の句です。

 家から駅へ行く遥に、百日紅の木がたくさんあり、梅雨明けを合図に、わっと咲きはじめます。

 その期間は通が薄紅色になるほど花を散らすのですが、花びらを踏みながら見上げると、どの辺が散ったのかわからないくらいに、びっしりと咲いているのです。

 果実がたわわに成る、とは言いますが、この木は花がたわわに咲き、花の重みで、枝が弓なりになってしまいます。

 わさわさと散り、もりもりと咲く、というお祭りが、秋までの百日間続きます。長い、長いお祭りです。

 百日紅のしたたかさに、江戸の浮世絵師がだぶり、表題はこんなふうに決まりました。

 ふとした出来心で、北斎にちょっかいを出してしまいましたが、手の上でころがすには、このジイさん、大きすぎ、象を一本背負いするような愚挙だったと、苦笑しています。

 これを読んだ時にはぶったまげた。

 「あ、この人(作者)確信犯だ」

 と思った。
                          
 なんで北斎のことを描いている物語のタイトルが「百日紅」なのよ、ようわからん!その謎がこれで解けたのである。

 解けてみれば、なるほど、これほどハマるタイトルはない。

・・・・・・・・

 百日紅は、いくらでも咲く。

 咲きながら、花をおびただしく散らしてゆくのに、見あげれば、まだどれほども量を減らしていない満開の花が頭上にある。

 咲かせて、散らせて、咲かせ続ける。散らせ続ける。どれだけ散っても枯れるということがない。減るということがない。

 散れば散るほど、いよいよたくさんの花が「もりもり」と咲いてくる。

・・・・・・・・

 散り続け、しかも、咲き続ける桜ーー。

 これはまるで、手塚治虫のことではないか。

 あるいは、天野喜孝のことではないか。

 才能とは、おおむね、そういうものであろう。

 咲き競け、咲き続き、咲き続いてしまう。

 あるいはモーツァルト。

 そして、北斎。

・・・・・・・・

 描けば描くほど、いよいよ描きたいものが増えてゆく。

 量産につぐ量産をしながら、そのレベル、落ちず、いよいよ新しくなってゆく。

 仕事選ばず。

 何でもやる。

 何でも描く。

 美人画だろうが、滑稽画だろうが、風景画だろうが、分け隔てがない。

 晩年に入ってなお、絢爛とした色づかいと大胆な構図を描いた。

 西洋の天使の絵などを、ちゃっかりと自分の絵の中に取り入れたり、その好奇心はとどまるところを知らない。

 一生を、じたばたとし、生ぐさく生き、なお、どこかで人間界をぶっ飛んで枯れていたような側面もある。

・・・・・・・・

 この北斎を、確信犯杉浦日向子が描いた。

 これで、おもしろくないわけはない。

 ぼく自身は、『百物語』と並んで、杉浦日向子の二大傑作と思っている。

 この北斎と、あるいは杉浦日向子自身の分身であるかもしれないお栄とのスタンスがよく見えてくる短編がひとつある。

 (後略)


(正月二日の売り出しに向け、夏から本番の歌川豊国社中)

 天才とは「栄光をまとった孤独」と言えるかもしれません。

 美神に魅入られ、天の意志で描き続けさせられる漫画家、画家、作家、すべてのアーティストたち。。。

 際限なき創造は、果てしなき海をたった一人泳ぎ続けることに似ているでしょう。

 誰もが味わうことなどできぬ紺碧の空と海、果てしなき大海を泳ぎ続けるわれ一人。。。

 その栄光と孤独。。。

 日向子さんもまちがいなくその中のお一人です。

 北斎に、いやその三女お栄に自分を重ねているのがよ〜くわかります。

・・・・・・・・

 はたから見れば才能があってうらやましいと思われるアーティストたち。

 しかし、他の生き方を選べぬ「創造の宿命」を背負っている彼ら。

 きっとこう思っているに違いありません。

 「凡人こそ幸いなり」と。