漱石「私の個人主義」より

 大雪は読書日和でもあります。しんしんと降る雪に心が落ち着き、久しぶりに数冊の本を読みだめできました。

 その中には夏目漱石の『倫敦塔』と『私の個人主義』がありました。

 読もうという強い意志があったのではなくて、次のような偶然からでした。

 前日に『もう一人のシェークスピア』という映画チャンネルの録画を観ました。

 かなりセットが凝っていたせいか、歴史をもう一度おさらいしたくなり、ネットサーフィン。

 エリザベス一世からロンドン塔へ、そこから夏目漱石『倫敦塔』を思いだしました。

 さらに先日ブログに書いた小野田さんの「個人主義」の話から、漱石の『私の個人主義』への連想となったのです。

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 どちらも十代の頃読んで以来です。

 その頃はあまりピンと来なかったんですが、今読み直すと実に興味深い内容です。

 なにがっていうと、漱石の本音とか肉声が聞こえてくる気がするんです。

 夏目漱石といえば今では古典中の古典となり、その批評や解説は奥深き高尚なものばかりです。

 おかげで漱石には「高嶺の花」のようなイメージが付いた気もします。

 しかし『倫敦塔』を読んでいると、自分も漱石と同じ視線で眺めたり感じたりしているような気がして親しみがわいてきます。

 『私の個人主義』は講演の書き起こしですから、さらに彼の肉声がそのまま伝わってくるようです。

 そこには、私たちと等身大の人間くさい漱石がいます。

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 今日は『私の個人主義』から少しだけ抜き書きしておこうと思います。

 この講演の内容は、大きく二つのテーマに分けられると思います。
 
 ひとつめは「いかにして自分の出発点を見いだしたか」

 ふたつめは「個人主義とは何か、どうあるべきか」

 抜き書きするのは、ひとつめのテーマからです。

 なにかホッとさせられる文章なので書きとどめておきたいと思いました。

(いつものように勝手に小見出しを付けました)

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三年勉強して、ついに文学は解らずじまい

 私は大学で英文学という専門をやりました。その英文学というものはどんなものかとお尋ねになるかも知れませんが、それを三年専攻した私にも何が何だかまあ夢中だったのです。

 その頃はジクソンという人が教師でした。私はその先生の前で詩を読ませられたり文章を読ませられたり、作文を作って、冠詞が落ちていると云って叱られたり、発音が間違っていると怒られたりしました。

 試験にはウォーズウォースは何年に生れて何年に死んだとか、シェクスピヤのフォリオは幾通りあるかとか、あるいはスコットの書いた作物を年代順に並べてみろとかいう問題ばかり出たのです。

 年の若いあなた方にもほぼ想像ができるでしょう、はたしてこれが英文学かどうだかという事が。

 英文学はしばらく措(お)いて第一文学とはどういうものだか、これではとうてい解るはずがありません。

 それなら自力でそれを窮め得るかと云うと、まあめくらの垣覗(かきのぞき)といったようなもので、図書館に入って、どこをどううろついても手掛りがないのです。

 これは自力の足りないばかりでなくその道に関した書物も乏しかったのだろうと思います。とにかく三年勉強して、ついに文学は解らずじまいだったのです。

 私の煩悶は第一ここに根ざしていたと申し上げても差支ないでしょう。

人知れず陰欝な日を送っていた

 私はそんなあやふやな態度で世の中へ出てとうとう教師になったというより教師にされてしまったのです。幸に語学の方は怪しいにせよ、どうかこうかお茶を濁して行かれるから、その日その日はまあ無事に済んでいましたが、腹の中は常に空虚でした。

 空虚ならいっそ思い切りがよかったかも知れませんが、何だか不愉快な煮え切らない漠然たるものが、至る所に潜んでいるようで堪まらないのです。しかも一方では自分の職業としている教師というものに少しの興味ももち得ないのです。

 教育者であるという素因の私に欠乏している事は始めから知っていましたが、ただ教場で英語を教える事がすでに面倒なのだから仕方がありません。

 私は始終中腰で隙があったら、自分の本領へ飛び移ろう飛び移ろうとのみ思っていたのですが、さてその本領というのがあるようで、無いようで、どこを向いても、思い切ってやっと飛び移れないのです。

 私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当がつかない。私はちょうど霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ち竦んでしまったのです。

 そうしてどこからか一筋の日光が射して来ないかしらんという希望よりも、こちらから探照灯を用いてたった一条で好いから先まで明らかに見たいという気がしました。

 ところが不幸にしてどちらの方角を眺めてもぼんやりしているのです。ぼうっとしているのです。あたかもふくろの中に詰められて出る事のできない人のような気持がするのです。

 私は私の手にただ一本の錐さえあればどこか一カ所突き破って見せるのだがと、焦燥り抜いたのですが、あいにくその錐は人から与えられる事もなく、また自分で発見する訳にも行かず、ただ腹の底ではこの先自分はどうなるだろうと思って、人知れず陰欝な日を送ったのであります。

自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はない

 私はこうした不安を抱いて大学を卒業し、同じ不安を連れて松山から熊本へ引越し、また同様の不安を胸の底に畳んでついに外国まで渡ったのであります。

 しかしいったん外国へ留学する以上は多少の責任を新たに自覚させられるにはきまっています。それで私はできるだけ骨を折って何かしようと努力しました。

 しかしどんな本を読んでも依然として自分はふくろの中から出る訳に参りません。このふくろを突き破る錐は倫敦中探して歩いても見つかりそうになかったのです。

 私は下宿の一間の中で考えました。つまらないと思いました。いくら書物を読んでも腹の足たしにはならないのだと諦めました。同時に何のために書物を読むのか自分でもその意味が解らなくなって来ました。

 この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟ったのです。

 今までは全く他人本位で、根のない浮きぐさのように、そこいらをでたらめに漂よっていたから、駄目であったという事にようやく気がついたのです。

他人本位とは人真似のことであった

 私のここに他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似を指すのです。

 一口にこう云ってしまえば、馬鹿らしく聞こえるから、誰もそんな人真似をする訳がないと不審がられるかも知れませんが、事実はけっしてそうではないのです。近頃流行るベルグソンでもオイケンでもみんな向こうの人がとやかくいうので日本人もその尻馬に乗って騒ぐのです。

 ましてその頃は西洋人のいう事だと云えば何でもかでも盲従して威張ったものです。だからむやみに片仮名を並べて人に吹聴して得意がった男が比々皆是なりと云いたいくらいごろごろしていました。

 他の悪口ではありません。こういう私が現にそれだったのです。

 たとえばある西洋人が甲という同じ西洋人の作物を評したのを読んだとすると、その評の当否はまるで考えずに、自分の腑に落ちようが落ちまいが、むやみにその評を触れ散らかすのです。

 つまり鵜呑と云ってもよし、また機械的の知識と云ってもよし、とうていわが所有とも血とも肉とも云われない、よそよそしいものを我物顔にしゃべって歩くのです。しかるに時代が時代だから、またみんながそれを賞めるのです。

はじめて悟ったこと

 けれどもいくら人に賞められたって、元々人の借着をして威張っているのだから、内心は不安です。手もなく孔雀の羽根を身に着けて威張っているようなものですから。それでもう少し浮華を去って摯実(しじつ)につかなければ、自分の腹の中はいつまで経って安心はできないという事に気がつき出したのです。

 たとえば西洋人がこれは立派な詩だとか、口調が大変好いとか云っても、それはその西洋人の見るところで、私の参考にならん事はないにしても、私にそう思えなければ、とうてい受売りをすべきはずのものではないのです。

 私が独立した一個の日本人であって、けっして英国人の奴婢でない以上はこれくらいの見識は国民の一員として具えていなければならない上に、世界に共通な正直という徳義を重んずる点から見ても、私は私の意見を曲げてはならないのです。

 しかし私は英文学を専攻する。その本場の批評家のいうところと私の考えと矛盾してはどうも普通の場合気が引ける事になる。そこでこうした矛盾がはたしてどこから出るかという事を考えなければならなくなる。

 風俗、人情、習慣、溯のぼっては国民の性格皆この矛盾の原因になっているに相違ない。それを、普通の学者は単に文学と科学とを混同して、甲の国民に気に入るものはきっと乙の国民の賞讃を得るにきまっている、そうした必然性が含ふくまれていると誤認してかかる。

 そこが間違っていると云わなければならない。たといこの矛盾を融和する事が不可能にしても、それを説明する事はできるはずだ。そうして単にその説明だけでも日本の文壇には一道の光明を投げ与あたえる事ができる。

 こう私はその時始めて悟ったのでした。はなはだ遅まきの話で慚愧(ざんきの)至りでありますけれども、事実だから偽わらないところを申し上げるのです。

「自己本位」という出発点を見つける

 私はそれから文芸に対する自己の立脚地を堅めるため、堅めるというより新らしく建設するために、文芸とは全く縁のない書物を読み始めました。

 一口でいうと、自己本位という四字をようやく考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索に耽り出したのであります。

 今は時勢が違いますから、この辺の事は多少頭のある人にはよく解せられているはずですが、その頃は私が幼稚な上に、世間がまだそれほど進んでいなかったので、私のやり方は実際やむをえなかったのです。

 私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気慨が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。

 自白すれば私はその四字から新たに出立したのであります。そうして今のようにただ人の尻馬にばかり乗って空騒ぎをしているようでははなはだ心元ない事だから、そう西洋人ぶらないでも好いという動かすべからざる理由を立派に彼らの前に投げ出してみたら、自分もさぞ愉快だろう、人もさぞ喜ぶだろうと思って、著書その他の手段によって、それを成就するのを私の生涯の事業としようと考えたのです。

実は意気揚々とロンドンから帰った

 その時私の不安は全く消えました。私は軽快な心をもって陰欝な倫敦を眺めたのです。

 比喩で申すと、私は多年の間懊悩した結果ようやく自分の鶴嘴(つるはし)をがちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです。なお繰り返していうと、今まで霧の中に閉じ込まれたものが、ある角度の方向で、明らかに自分の進んで行くべき道を教えられた事になるのです。

 かく私が啓発された時は、もう留学してから、一年以上経過していたのです。それでとても外国では私の事業を仕上しあげる訳に行かない、とにかくできるだけ材料を纏めて、本国へ立ち帰った後、立派に始末をつけようという気になりました。

 すなわち外国へ行った時よりも帰って来た時の方が、偶然ながらある力を得た事になるのです。

 漱石はロンドン留学中に強い神経衰弱に陥り、発狂するかもしれないと心配した友人たちの尽力もあって、早くに帰国させられたとされています。

 しかしこの講演において、漱石はロンドン留学時代の後半を、「悟り」を得て意気揚々だったと語っています。

 この講演は大正3年、「こころ」を執筆した年でもあります。

 文学の深淵をどこまでも下りていくことになった漱石の(ある意味)懊悩の時期でもあったと思われます。

 講演の中頃で漱石が学生に語った言葉があります。

何かに打ち当るまで行く

 もしそうだとすると、何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年二十年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。

 ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。

 容易に打ち壊されない自信が、その叫び声とともにむくむく首を擡(もた)げて来るのではありませんか。

 『私の個人主義』という講演は、ひとり未踏の地を行く己への励ましだったのかもしれません。

 夏目漱石の永遠の恋人