茨木のり子「詩のこころを読む」

 茨木のり子さんが好きな詩について語った本です。彼女の詩と同じようにその文章も、聡明で温かい「慈愛」のようなものが伝わってきます。
 『詩のこころを読む』は茨木のり子さんが共感する「いい詩」を集めた本です。

 一篇一篇の詩に彼女自身が愛情をこめて、「詩のこころ」をわかりやすく解説してくれます。

 どのページを開いても、茨木のり子さんが読者に直接やさしく語ってくれるような気がします。

はじめに

 いい詩には、ひとの心を解き放ってくれる力があります。

 いい詩はまた、生きとし生けるものへの、いとおしみの感情をやさしく誘いだしてもくれます。

 どこの国でも詩は、その国のことばの花々です。

 紹介する詩は「別れ」という章にある女性詩人永瀬清子さんの詩です。私はこの方の詩を初めて読みました。

悲しめる友よ  永瀬清子

悲しめる友よ

女性は男性よりさきに死んではいけない。

男性よリー日でもあとに残って、挫折する彼を見送り、又それを被わねばならない。

男性がひとりあとへ残ったならば誰が十字架からおろし埋葬するであろうか。

聖書にあるとおり女性はその時必要であり、それが女性の大きな仕事だから、あとへ残って悲しむ女性は、女性の本当の仕事をしているのだ。

だから女性は男より弱い者であるとか、理性的でないとか、世間を知らないとか、さまざまに考えられているが、女性自身はそれにつりこまれる事はない。

これらの事はどこの田舎の老婆も知っている事であり、女子大学で教えないだけなのだ。

 − 短章集2『流れる髪』

  →永瀬清子

 茨木のり子さんがこの詩について語る文章、それもまた詩のようであります。

 愛する人を失って悲嘆にくれる友人をなぐさめる形になっています。なくなつたのは、友人の恋人か夫かわかりませんが、なぐさめ励ましたいという作者の願望が、真底からほとばしり出て、ついに「これらの事はどこの田舎の老婆も知っている事であり、女子大学で教えないだけなのだ。」という、実に痛快な結論に達してしまいます。

 
女房より先に死にたいと願っている男性はいっばいいますし、実際、女房に先だたれた男ほど哀れで、こころもとなく見えるものはありません。年をとればとるほどそうで、何かをごっそりもってゆかれたみたいにへたります。

 女が生き残った場合はなんとかさまになっているのはどうしてだろう、折にふれて考えさせられてきましたが、「悲しめる友よ」を読んでから、いい形をあたえられたようでひどくはっきりしてきました。

 男性は何歳になっても、わんばく小僧時代と変わらないで、やりたい放題ちらかしっぱなし、どうとでもなれ式に息絶えます。そのぶざまさを人々の目から隠し、きれいなジ・エンドとして形を整えてあげ、水がいっぱいでもちきれない壷を抱えてゆくような悲しみに耐えるのが女の本当の仕事なのだと言っています。

 聖書の中の女たちとは、ガリラヤからキリストにつきしたがい、その処刑を見とどけ香料と香油(においあぶら)で葬ったマグダラのマリヤたちを指すのでしょう。

 「そんな補助的な仕事をするのが女の役目なの? ばかばかしい、男の挫折を被ってやるのが女の一番の仕事だなんて。」

 そんな元気のいい反論がたくさんきこえてくるような気がします。そう思えたらそう思ったって、いっこうにかまわないのです。けれど永瀬清子の詩篇を読めば、どんなに女性の解放を願ってきた人だったか、歪められない女本来ののびやかさを得ようとして、戦前から詩を書くことで、どんなに闘ってきた人かがわかります。そしてまた作者は、卑しめられてきた「妹(いも)の力」、つまり女の力に正当な評価を与えたいという願望を持ち、それが詩篇の随所にあふれでるのです。「諸国の天女」もそうでした。・・・

  (中略)

 ・・・現実の出来ごとにしろ、映画や小説にしろ大詰めには女のひとが出てきて、始末し、覆い、たとえどんな悪人でも、いとおしみ、かき抱き、あとは女のひとの胸のなかで生きつづけるしかない、というところで終わりです。でないと、うまく幕がひけない感じです。

 手ひどい死別の悲しみを味わった女性は 「悲しめる友よ」から、きっと深い慰めを得るだろうとおもいます。もちろんこの中の男性には、父や男兄弟なども含まれてしまうでしょう。

 女は女一人としても存在理由があって、シャンと立っているべきなのですが、永瀬清子が表現したように、ずいぶん損な役まわりではあるけれど、男よりあとに残って悲しみを抱きとってゆく仕事も、たしかに女の仕事の重要な一部分なのだと、悟らされるのです。

 女の本質に、じかに触れているところがあり、その触感を残すために、大きく切りすててしまった部分があり、ために、あまりにも独断的思考ととる人があるかもしれません。作者は別のところで、独断を恐れていては一篇の詩も書けないと言っていますが、私もそう思います。

 詩のおもしろさは独断のおもしろさかもしれないのです。ちっぽけな独断か、深く大きな独断かの違いがあるだけで。

 なんと心の奥深きところにとどくのでしょう、詩人の言葉というものは。

・・・・・・・・

「詩のこころを読む」より
 便所掃除の詩(うた)
 茨木のり子さんが好きな詩