言葉で描いたゴーギャン

 十数年前からゴーギャンに強く惹かれるようになりました。福永武彦『ゴーギャンの世界』を読んで惹かれる理由がわかってきました。
 福永武彦『ゴーギャンの世界』(昭和36年刊)は、私にとってすばらしい出会いでした。

 ゴーギャンに惹かれるといっても、私を惹きつけているのはいったい何かよくわかりませんでした。

 「絵そのもの」なのか「作家の人生」なのか「タヒチという風土」なのか、それとも?

 本文には次のような文章があります。

 「問題は如何にして彼がタヒチに捉えられ、次第に深みにはまり込み、遂にそこから逃げられなくなったかという点にある。ゴーギャンがタヒチを掴(つか)んだのではなく、タヒチの方が彼を掴んで離さなくなった点にある。・・・」

 私はこの本と画集を交互に見ながら、この文章の意味することがぼんやりとわかってきました。

 いつか改めてそれを書いてみたいと思っています。

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 さて『ゴーギャンの世界』には、ゴーギャンの友人であり『ノアノア』(「かぐわしい香り」の意。ゴーギャンの自伝的随想集)の共同編者であったシャルル・モリスという詩人の言葉が多く引用されています。

 その中で、モリスがゴーギャンの顔について書いている文章が秀逸で、言葉だけで「ゴーギャンの自画像」が想像できるようでした。

 モリスが言葉で描いた「ゴーギャンの自画像」、それは彼の性格、人間性を明らかにするだけでなく、それゆえの数奇な人生、それゆえの偉大な作品までをも想像させるものでした。

 かなり口の悪い表現ではありますが、それもそのはず実生活においても彼とゴーギャンは諍いやら和解やらの繰り返しであったようです。

「第四章 象徴主義」より

 シャルル・モリスも亦、こうして彼の識り合った若い詩人たちの一人だが、ゴーギャンの第一印象を次のように伝えている。

 その晩、〔カフェ・〕コート・ドルにおくれて行った私は、友人たちのグループの中に一人の新顔を認めた。

 骨ばってどっしりした大きな顔、狭い額、鈎型でもなく弓なりでもないが押し潰されたような鼻、薄い唇をした引結んだ口、そしてやや飛び出した眼にものうげに覆いかぶさった目蓋、その眼の蒼みがかった瞳は、眼窩の中で右や左を見るためにくるくる廻ったが、それにつれて上体とか頭とかが、動くことほまずなかった。

 この初めての男には大して魅力があったわけではない。しかし、明かに生れつきの倣慢な貴族性と、俗っぽさに殆ど隣り合せた率直さとの入り混った、甚だ個性的な表情によって人を惹きつけていた。

 この混り合った二つの性質が、力を証するものであることはすぐに看て取れた。これはつまり人民の中に浸透した貴族主義である。

 そして彼には優雅さが欠けていたとしても、彼の微笑は、このあまりにも真一文字に結ばれた、薄っペらな唇にふさわしいとは言えなかったが、その唇がゆるむ時には、それは如何にも不本意そうで、まるで陽気さを告白するのは自分の弱みを示すものだから大急ぎで取り消すといった趣きがあった。

 しかしゴーギャンの微笑は、驚くべき天真爛漫な優しさを持っていないわけではなかった。特に彼の顔は荘重な面持の時に実に美しくなり、議論が白熱して来ると、不意に深い蒼みを持って彼の眠からほとばしり出た光によって、明るく輝き渡った。

 まさにその晩、私が初めてゴーギャンを見た時は、彼のこうした瞬間だった。

 一座の中には他にも見知らぬ顔が幾つか見えたが、私の眼は一座の中心にいる彼の姿にすっかり吸いつけられ、十人ばかりの詩人や画家が彼の話に耳を澄ませているテーブルの側に近づくと、長い間そこに立っていた。

 私に手を差し延べた友人たちと心もよそに握手を交すと、私も亦一心に耳を傾け始めた。

(モリス 『ゴーギャン』P.NTN〕)


(「黄色いキリストのある自画像」 1889)

 このゴーギャンの容貌とその話しぶりとの描写は、彼に心服していたモリスの報告だけに、まず間違ってはいないだろう。

 ゴーギャンには確かに若い連中を惹きつけてやまない幾つかの魅力があった。

 ざっくばらんなところと貴族的な尊大さ、議論に於ける異常な熱心さ、ずけずけした口調と子供っぼい微笑、そして絵に対する恐るべき自信。

 そして彼はその自信を持つが故に、文学者たちの間に伍して少しも恐れる必要がなかった。


(晩年の自画像「ゴルゴダの自画像」 1896)


(ポール・ゴーギャン 1891頃)

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 もうひとつ、シャルル・モリスの文章が「画集」にもありました。

 ゴーギャンのこの絵に寄せた解説は、まるでドラマのような臨場感を与えてくれます。

集英社版『アート・ギャラリー』より

 ゴーギャンの友人で、『ノア・ノア』の共同制作者でもあった象徴主義差シャルル・モリスは、この作品について次のように書いている。

(「今日は、ゴーギャンさん」1889)

 「嵐を告げる雲。・・・・・時と場合によって人間嫌いになる一人の男が野原の外れを垣根の方へやってくる。

 家路を急ぐ女は、この嵐を気にもとめない男の姿に驚き、彼の方へ半ばふりむき、歩み寄ろうか遠ざかろうか、ちゅうちょしながら、感じのいいしぐさで、彼に挨拶する。

 『今日は、ゴーギャンさん。』

 しかし、男の険しくて、うっとうしいまなざしは彼女を狼狽させる」

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 『ゴーギャンの世界』は超一級の本でありました。

 福永武彦は最初の長編小説『風土』(昭和27年刊)を十年もかけて執筆したそうですが、その小説もまたゴーギャンと深い関わりがあるようです。


 ゴーギャンとは真逆の容貌を持つ洗練された知性的作家である氏が、なにゆえゴーギャンにこれほどまで惹かれるのか。

 その理由を知ることは、私にとっても深い意味をもつような気がしています。

 今、『風土』を読み始めようとしているところです。