おいしさに壁はない

 天野祐吉さんの「CM天気図」バックナンバーを開いてみました。当然そこに書かれていたCMはもう流れていないし、覚えている人だって少ないことでしょう。ですが、そんなこととは関係なく今でも私に「そうそう、なるほど」と思わせてくれるのはどうしてなんでしょう?
 まるで占いのように『天野祐吉のCM天気図傑作選』をパッと開き、そのページを読んでいます。

 今日パッと開いたのは今から10年前のコラムでした。

 「おいしさに壁はない」

 何か大事なことを示唆してくれるタイトルです。

 やはり一流の方は、最初の一発目というかタイトルですべてを語ります。

『天野祐吉のCM天気図傑作選』より
おいしさに壁はない

 国境なんてものを作った人間の愚かしさについて、以前、住井すゑさんが、こんなことを言っていた。

 「飛行機で飛ぶということは、人間も鳥のようになったということでしょ。鳥のように自由になったのなら、鳥の自由も手に入れなくちゃ。渡り鳥は移動のときに、いちいち旅券もいらないようだからね」

 そうなのである。野ウサギが国境を越えるとき、パスポートを見せながら走っていったなんて話は、ぼくも聞いたことがない。

 ま、国境という壁も、近ごろはかなり低くなってきた。が、それでも、人種とか宗教とか、相変わらず人間は壁をつくったり線を引いたりして、次々にモメゴトを起こしている。

 が、その一方で、そんなのよそうよと言いつづている人もいる。日清カップヌードルである。

 広い荒野に延々と引かれた境界線に、両側から大勢の人たちが駆け寄り、線をはさんでにらみ合う。が、境界線と見えたのは、実はずらりと並んだカップヌードルで、ひとりの少女がそれに手を出して食べはじめ、境界線はたちまち消えてしまう。人びとの笑顔をバックに「NO BORDER」(境界なし) という文字が現れる。

 という第1作にほじまって、いま流れている「老人と少年」編まで、ことしのカップヌードルは「NO BORDER」と言い続けてきた。

 「たかがカップヌードルが」なんて言ってはいけない。「おいしい」というのは人と人をつなぐいちばん素朴な感覚で、だからこそ強い。げんにカップヌードルは、世界の各地でたくさんの人に愛されている。

 おいしいものの前には、まさに国境も人種も消えてしまうわけで、思えば終戦直後、ぼくがにっくきアメリカを許す気になったのも、GIがくれたチョコレートの力だった。

 というわけで、もともとは録と水でおおわれていただけの地球に、壁を立てたり、線を引いたりしてきたのは、ひとにぎりの人間たちの勝手な都合によるもので、そんなものはないに越したことはないのだ。

 もっとも、そんな壁や線はあるのが当たり前と、どこかで思いこんでしまっているぼくらの常識の壁もまた、けっこう厚くて固いんだよね。

(2004,11.18)


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 私は数日前、偶然こんな言葉と出会いました。

 「怒りでは『共有』できない」

 福島県出身の小説家である古川日出男さんという方の朝日新聞への寄稿でした。

朝日新聞2014.3.16

古川日出男「怒りでは『共有』できない」より

 ・・・共有できなかったことを共有しようとするのは、言うまでもないが難しい。

 そのために、それを無理に共有させたいと願う時に、人はついつい“怒り”という旗印を求める。

 憤りをぶつける対象を求めれば共闘できるはずだ、と短絡的に考える。

 が、本当にそうなのか。原発問題に怒っている人たちがいて、その「怒り」に関心が持てないから、原発問題にいっさい興味を示さない人たちがいる。

 それで本当にいいのか。

 ここで一人ひとりが向き合うべき対象は、「怒り」というネガティブな感情ではない。

 もっと建設的な、そう、未来をポジティブに捉えようとする感情だし、姿勢だ。

 あらゆる議論は、そこを出発点にしなければ深まりようがない。

 それに、僕はどうしても思ってしまうのだ。ネガティブな感情を共有し合ったところで、そこから何が生まれるのか?

 何かを憎まないかぎり、僕たち日本人同士がその手と手を握り合えない状況というのは、何かが、どうしたって少々おかしい。・・・ 

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 紹介した二つの話は深くつながっているように思えます。

 何かを憎む「共有」、怒りの「共有」の行く末を想像すべきだと私は思います。

 それでは、ネガティブの代わりに何を「共有」すればいいのか?

 そのヒントを天野祐吉さんのコラムが示唆してくれているようです。

 それは決して「政治的なもの」ではないでしょう。

 難しいし、長くかかりそうだけど、自分の身の回りの範囲でそれを探していかなければ、と思います。

 私たちの世界は「政治」だけではないはずですから。