政治家はよき人である

 鴨長明「方丈記」が、これほど多くの文学者やアーティストの「心のよすが」となっていたとは驚きです。三木卓『私の方丈記』を読んでみました。

 堀田善衛、宮崎駿、水木しげる、そして三木卓、「方丈記」が心の支えとなったのは、彼らが皆、戦争という極限状況を何らかの形で経験したからに他なりません。

 平安末期から武家政権への大きな転換期、うち続く災害やいくさ、死臭ただよう都に絶望し隠棲した鴨長明と、心の深層で共鳴し合っているからです。

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 さて『私の方丈記』は、鴨長明「方丈記」の段に合わせて著者の経験や考えをつづっている、ある意味「自伝」です。

 その中で「政治」について書いている文章がありました。

 三木卓氏は文学者であり、文中で自らも告白しているとおり、「政治は苦手」、「政治とは無縁でいたい」という傾向の方です。

 そこは私もまったく同じで、一番嫌いな職業はと聞かれたら「政治家」と答えるような人間です。

 とはいえ、生きている限り政治とは切っても切れない関係であることも事実で、常に痛いような痒いような感覚の中にあります。

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 そんな同類?であろう三木卓氏が書いていた「政治」「政治家」観に少なからずびっくりしました。

 「政治家」に対して、大変好意的な文章なのです。

 偏屈な私の心のストレッチにいいかもしれないと思い、ここに引用した次第です。

 (しかもアベベ、オババ対談があったばかりでタイムリー?)

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「その七 政治なるもののこと」より

方丈記 原文

 伝へ聞く、いにしへの賢き御せには、あはれみを以て国を治め給ふ。すなはち、殿に茅ふきて、その軒をだにととのへず、煙の乏しきを見紛ふ時は、限りある景物をさへゆるされき。これ、民を恵みせを助け給ふによりてなり。今のせのありさま、昔になぞらへて知りぬべし。

 伝えられるところでは、むかしのかしこかった君主たちは慈愛をもって国をおさめた、という。中国の帝王尭(ぎょう)は、茅(かや)で御殿の屋根をふいたが、国民の労苦を思って、その軒の茅先の乱れを切りととのえるということさえさせなかった。またわが国の仁徳天皇は、国民のかまどからのぼる煙がとぼしいのをごらんになって、規定の貢ぎ物をおさめることまでも免除なさった。これは人々に恵みをたれ、世を救おうという、君主のお気持ちによるものである。こういうむかしの事例とくらべてみると、いまの世がどんなによくないものか、よくわかるのである。

政治なるものはついてまわる

 人生にはいろいろおっかないものがあってぼくはそれに困りながら生きてきた。

 おっかないものは、すばらしいものとしばしば背中あわせになつていて、たとえば女性などというものは、もちろんである。

 政治というものも、代表的なそのひとつであって、ぼくは少年時代にちょっと周辺をうろついたが、たちまちおそろしくなって逃げ出した。

 しかし政治というやつは、そう簡単に逃がしてくれない。

 たとえ国会議員にならなくても、市会議員にならなくても、政治なるものはついてまわる。

 ぼくはそれがおそろしいから、尻に帆かけて逃げまくる人生をやってきた。

 今もやっているつもりでいる。

 しかしうまくいっているとは、とても思われない。

 では政治など犬に喰われてしまえばいいと思っているかといえば、まったくそういうことはない。

 政治がなくてはならないのは、女性がなくてはならないようなもので、この世界はなりたたない。

政治への挫折と恐怖

 ぼくはいまだに共産主義の基本的な考え方は人類にとって必要だ、と思っている。

 しかしぼくは十六歳にして、その政治的現実的実現の路を行くことができなくなり、挫折・脱落してしまったのである。

 そしてそのぼくは、挫折したことを当然だと思いながら、それ以来一方で脱落してしまった自分に対してうしろめたい思いを拭い去ることができない。

 それは何も共産主義や社会主義の政治のあり方だけに抱いている気持ではない。

 ぼくはそれからもいろいろな政治を体験し、また過去の政治を振り返ることもあった。

 そしていつも政治はおそろしく、わたくしごときが手を触れるべきものではないと思うのである。

 政治はまともに考える人間にとってはコントロール不能と思わざるを得ない側面をもっている、と思っている。

政治家は本質的によき人である

 仁徳天皇は、自分が民衆にとってよき政治を行ったために「民のかまどはにぎはいにけり」と古歌にあるように自らに満足した。

 長明もそれをすばらしいこととして賞揚した。

 ぼくも、基本的に政治家はいつの時代も、国家・国民のためになる政治を行おうという善き志を持って来た人々であることを、まずは信じる。

 ぼくのようなものでも、タマには生きている政治家に出会うことがあるが、そういうとき、いつも人間的に温い、よき人々だとかれらのことを感じる。

 政治などというものに志を持つ人々は、本質的によき人なのだとぼくは最近ますます思うようになっている。

 ジャーナリズムは、政治家みんなを悪の権化のようにいい、面白半分にからかう。

 かれらはそれを、甘んじて受け入れながら、その志をなんとか実現しようとしている。

しかし、奴隷になってしまう

 しかし、現実にはどうか。

 そのことについて、今ここでくだくだしく述べる必要はないと思うけれど、かれらはこと志に反することも、どんどん行わなければならない。

 現実政治がそれを要求するからである。

 とんでもない事態になつてその力に対していかんともしがたいことも起る。
 
 多分、それは現実政治が、人間の高い心の上にだけあるのではなく、人間の弱い心、低い心ともつきあわなければなりたたないからではないか、と思う。

 民主主義の政治はもちろん、これまでのどのような体制の国家の政治であれ、この事実の奴隷にならないですんできたとは思われない。

 その力学が、ときにはとんでもない結果を招来する。

政治は魔性

 そして、政治家にとって、自分がどのような政治家として機能することになるかは、まさにルーレットが定める運命のようなものではないか、と思う。

 みんな仁政を敷きたいと思っていても、権力にたどりつくまでにもう、それを裏切るたいへんなことをしなければならない。

 そしてやっとたどりついたとしても、只今の場がその政治家に対して微笑んでくれるかどうかは、また別問題である。

 天下の大悪人になつてしまうことだって、しばしばなのである。

 しかし、政治に志す人間は次々に現われて来るだろう。

 かれらにとっても多分政治はおそろしいものだろうが、それでもなおそれにもまして大いに魅力的で、情熱を傾けないではすまないものなのである。

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 書き写しながら思うことは、三木卓氏が持つ諦念のようなものです。

 まとめてみると

 「政治」とは巨大な生き物であって、決して政治家ひとりの「志」ごときでどうなるものでもない。

 それは、現実政治が人間の高い心だけでなく、人間の弱い心、低い心をも包含しているからである

 古今東西、「政治」という生き物の持つ魔力に抗えた政治家はいない。

 もしいたとしても、それは偶然の結果である。

 しかし「政治」がどんなに理不尽な生き物であったとしても、私たちのだれ一人として逃げることはできないのだ。

 政治家は必ずダースベーダになっていく。。。

 その通りであろうと納得するゆえ、正直、痛みが残るきついストレッチでした。

 政治家が持つべき最も大事な心構えは、「理想」ではなく「謙虚」だと思えてきました。

 「私は何をすべきか」ではなく「私は何をしでかしてしまうのか」ということです。

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参考
 坂茂さんと鴨長明