犬の匂い地図

 自分の過去ブログを読んでいて、「へ〜〜、そうなんだ」とまるで他人様から教えられたような気がするときがあります。そこで「ノボ・アーカイブス」を始めてみました。
 過去の自分写真を見て何か感じることがあるように、過去の自分ブログを見てハッとさせられることもあります。

 ブログは書いてしまえば煙のように消えていく、じゃなんとなく惜しい気持ちがします。

 そこでたまに厳選過去ブログシリーズ「ノボ・アーカイブス」を始めてみようと思ったのです。(決して骨休めじゃないんです、汗。。。)

ノボ・アーカイブス

2011.11.20「犬の地図」

 「犬の地図」というのを見たことがあります。

 それは視覚的な地図ではなく、匂いの地図なのでした。

 数十年前にテレビで見た記憶があります。

 犬というのはもともと視力がよくないらしく、犬の世界認識とかコミュニケーションは主に「嗅覚」であるといわれています。

 ある画家が、「それでは犬になりきって、飼い犬の散歩ルートから『犬の匂い地図』を描いてみよう」と思いたったようです。

 そのとき見た「犬の地図」を思い出すと、たとえはとてもよくないですが、まるで「放射性物質の拡散図」を思い起こします。

 強弱さまざまに色分けされた煙のような不定形な円が、紙の上にアメーバーのように広がっている絵でした。

 私は「え〜これが地図?犬はよくこれで迷わないものだ!」とびっくりしました。

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 五感のうち、もっとも原初的な感覚は「嗅覚」なのだそうですが、どういうわけか私たち人間は今や「ほとんど視覚だけ生物」に化してしまったようです。

 音楽もありますが、「情報」のほとんどは「文字」「絵画」「映像」と、視覚的なものが大部分です。

 それが人間の知性(?)と関係が深いのかもしれませんが・・・。

 でも、今、あまりにも薄っぺらな「視覚情報」が氾濫しすぎていて、末梢神経に変調をきたしそうな感じになることがあります。

 それは、「視覚情報」のエッセンスである言葉が言葉を生んでいき、ついには言葉が「私たち自身」から離れていくことが多いからだと思います。

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 今こそ「匂い」の記憶をよみがえらせて、そこから、思想を紡いでいく方法が必要ではないでしょうか。

 「匂い」は「生き物としての私たち」の「原初的なもの」「野性的なもの」につながるものだと思うんです。

 たとえば、早朝の露の匂い、遠き日の夕げの匂い、家畜小屋の匂い、花々の匂い、お年寄りの匂い、赤ちゃんの匂い、畑の匂い、海の匂い、森の匂い、都市の匂い、外国の匂い・・・

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 古典と呼ばれる文学作品のなかには、匂いに触発されて書かれたものも多くあります。

 たとえば、プルーストの「失われたときを求めて」は紅茶に浸したマドレーヌの味(鼻腔を刺激した香り)が、一瞬にして過去の記憶を一挙によみがえらせ、そのほとばしるような記憶を追記していった大作です。
 
 レヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」は、構造主義の出発点をなす文化人類学の研究書であり紀行文でもありますが、あらゆる場面で「匂い」がいきいきと描写されています。

 カルト的ともいえる「匂い」文学は、SF『デューン/砂の惑星』でしょう。映画にもなりました。

 これはスパイス(香り)が宇宙の原理をなす物質であり、恒星間旅行もスパイスの主であるウォームにより、スパイスから生じる超感覚で行われるのです。

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 私たちの思考ははたして「私たち自身」から離れていないか?

 その検証は「言葉」つまり「論理」という人工的なものによらず、もっと原初的な感覚「嗅覚」に基づくべきと思うんです。

 つまり、「その思想はどんな匂いがするの?」「その人はどんな匂いがするの?」

 こんなことわざもありました。(ビアスだったかな?)

 「教育とは教えられたことをすべて忘れ去ったあとに残っている先生の匂いである」

 きな臭い匂いがだいぶただよってきた昨今です。

 ソフトバンクのワンちゃんに、一度「国会匂い地図」を描いてもらうといいかもな〜、なんて。。。

 もはや必要ない?