すっかり秋めいてきました。スタンドの光を弱くして虫の声を聞いていると、つい難しそうな本を開いてみたくなります。
たぶん一生かけて読むことになるんでしょう。
20代の頃、古本屋で買ったバートランド・ラッセル『西洋哲学史』。
数年前に押し入れの奥から復活して以来、気が向いたときだけ数ページづつ読んでいます。
しかし古典の名著というのは思いの他読みやすく、内容もおもしろいものです。
少しづつしか読めないのには理由があります。
まるで熟成したチーズのように中身が濃く、少し読んだだけで満足してしまうからです。
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先日ルクレティウスのことをブログに書いたので、この本でエピクロスの章を読みました。
数日後のゆうべ、エピクロスの快楽主義と反対の禁欲主義といわれる「ストア主義」の章を読んでみました。
ふと考えされられる一文に出会いました。
それはこんな言葉です。
「ストア主義者は、何かに役立とうとして有徳であるのではなく、
有徳であろうとして何か役に立つことをするのである」
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「ストア派(禁欲主義)」については、高校時代、倫理社会の授業で習ったので名前は誰でもご存じでしょう。
この本によると、ゼノンに始まるストア学派は以前の純粋にギリシャ的な諸哲学とは違って、感情的に偏狭であり、ある意味では狂信的であったようです。
にもかかわらず支配者たちに訴える力を強く持っていたようです。
さらに西欧哲学の祖ともいえるソクラテスを同学派の主要な聖人と仰いだり、カントの哲学も彼らの影響を多分に受けていたといいます。
ひいては現代政治に繋がる「自然法」の概念さえもストア派から発していることが書かれていました。
つまり、西欧哲学から発した現代政治哲学はストア派的要素を根本に内在しているらしいのです。
忘れ去れたギリシャ哲学諸学派の一つと思っていましたが、さにあらず。
ラッセルの文章を引用します。
・・・以上の点とともに、ストア学派の徳の概念には、一種の冷たさがある。
断罪されるものは、悪い情熱ばかりではなくすべての情熱なのである。
彼らの言う賢者は、同情というものを感じない。
・・・エピクロスによってあのように賞賛された友情は、ストア学派においても甚だ結構なものなのだが、
友人の不幸が自分の神聖な平静さを失わせ得るまでに、友情を持ちすぎてはならないという。
公共的生活については、それが正義や忍耐などというものを示す機会をあたえるゆえに、その生活にたずさわることは皆の義務であるが、
人類に利益を与えようという欲望から公共生活におもむいてはならないという。
なぜなら諸君の与え得るような利益ーすなわち平和だとか、より適切にいえば食糧の供給といったことーは真の利益ではなく、
いずれにしても諸君にとって重要なことは、諸君自身の徳以外にはないからだそうだ。
ストア主義者は、何かに役立とうとして有徳であるのではなく、有徳であろうとして何かに役立つことをするのである。
彼らには、汝自身の如く隣人を愛せよ、といったことは考えもつかないのだ。
皮相的な意味以外の愛というものは、ストア学派の徳の概念には欠如しているのである。
私たちは「正義」や「誇り」や「道徳」といった言葉についてその本質を疑いません。
なのでこれらの言葉を出せば誰も反対などできません。
しかしそこには、ストア派の影響が強く残っているように感じました。
それらの言葉が行為の結果ではなく、その言葉自体が目的となってしまっていることにです。
秋の夜長、引き続き勉強していきたいと思っています。