ゆく河のごとき私たちの身体

 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」は方丈記の有名な書き出しです。実は私たちの身体もそうであるようです。
 この書き出しはこう続きます。

 「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。・・・」
 
 福岡伸一さん『動的平衡』を読んでいたら、まさにこの通りのことが書いてありました。

 この本(章)を読み直してみて、時節柄(スタップ細胞問題やらの)私は何か大切な観点を感じました。

 今やES細胞やIPS細胞の画期的な研究成果とその未来にはだれも何の疑問も感じずに、大きな期待だけをしています。

 ところがこうした学問の専門家である彼は、私たちに詳しく説明をしてくれながら、バイオテクノロジーの未来について重大な懸念をも語っているのです。

 その懸念とは「動的平衡としての生命を機械論的に操作する営為の不可能性」ということです。 

 第8章 生命は分子の「淀み」より引用します。(読みやすいように小見出しを付けました)

シェーンハイマーの実験
 
 日本が太平洋戦争にまさに突入せんとしていた頃、ユダヤ人科学者シェーンハイマーはナチス・ドイツから逃れて米国に亡命した。

 英語はあまり得意ではなかったが、どうにかニューヨークのコロンビア大学に研究者としての職を得た。

 彼は、当時ちょうど手に入れることができたアイソトープ(同位体)を使って、アミノ酸に標識をつけた。

 そして、これをマウスに三日間、食べさせてみた。

 アイソトープ標識 アミノ酸はマウスの体内で燃やされてエネルギーとなり、燃えカスは呼気や尿となって速やかに排泄されるだろうと彼は予想した。

 結果は予想を鮮やかに裏切っていた。

 標識アミノ酸は瞬く間にマウスの全身に散らばり、その半分以上が、脳、筋肉、消化管、肝臓、膵臓、牌臓、血液などありとあらゆる臓器や組織を構成するタンパク質の一部となつていたのである。

 そして、三日の間、マウスの体重は増えていなかった。

 この実験の結果に福岡伸一さんはこう述べています。

 「それまでのデカルト的な機械論的生命観にコペルニクス的転回をもたらした二十世紀最大の科学的発見である」

 私たちの身体はパーツの集まりではなく、川の流れと同じようなものであるらしいのです。

生命はプラモデルではなく川だった

 これはいったい何を意味しているのか。

 マウスの身体を構成していたタンパク質は、三日間のうちに、食事由来のアミノ酸に置き換えられ、その分、身体を構成していたタンパク質は捨てられたということである。

 標識アミノ酸は、ちょうどインクを川に垂らしたように、「流れ」の存在とその速さを目に見えるものにしてくれたのである。

 つまり、私たちの生命を構成している分子は、プラモデルのような静的なパーツではなく、例外なく絶え間ない分解と再構成のダイナミズムの中にあるという画期的な大発見がこの時なされたのだった。

 まったく比喩ではなく、生命は行く川のごとく流れの中にあり、私たちが食べ続けなければならない理由は、この流れを止めないためだったのだ。

 そして、さらに重要なのは、この分子の流れが、流れながらも全体として秩序を維持するため、相互に関係性を保っているということだった。

 個体は、感覚としては外界と隔てられた実体として存在するように思える。

 しかし、ミクロのレベルでは、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかないのである。

 著者はここから、この本のタイトルでもある「動的平衡」の意味について語っています。

「動的平衡」とは何か?

 生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。

 身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常に作り変えられ、更新され続けているのである。

 だから、私たちの身体は分子的な実体としては、数カ月前の自分とはまったく別物になっている。

 分子は環境からやってきて、一時、淀みとしての私たちを作り出し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれていく。

 つまり、環境は常に私たちの身体の中を通り抜けている。

 いや「通り抜ける」という表現も正確ではない。

 なぜなら、そこには分子が「通り過ぎる」べき容れ物があったわけではなく、ここで容れ物と呼んでいる私たちの身体自体も「通り過ぎつつある」分子が、一時的に形作っているにすぎないからである。

 つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。

 その流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。

 その流れ自体が「生きている」ということなのである。

 シェーンハイマーは、この生命の特異的なありようをダイナミック・ステイト(動的な状態)と呼んだ。

 私はこの概念をさらに拡張し、生命の均衡の重要性をより強調するため「動的平衡」と訳したい。

 ここで私たちは改めて「生命とは何か?」という問いに答えることができる。

 「生命とは動的平衡にあるシステムである」という回答である。

 ところが。。。

 ある発見により、またも世はデカルト的生命観に戻ってしまいました。

復活した機械論的生命観

 シェーンハイマーは、それまでのデカルト的な機械論的生命観に対して、還元論的な分子レベルの解像度を保ちながら、コベルニクス的転回をもたらした。

 その業績はある意味で二十世紀最大の科学的発見と呼ぶことができると私は思う。

 しかし、皮肉にも、このとき同じニューヨークにいた、ロックフェラー大のエイブリーによって遺伝物質としての核酸が発見された。

 そしてそれが複製メカニズムを内包する二重らせんをとっていることが明らかにされ、分子生物学時代の幕が切って落とされる。

 生命と生命観に関して偉大な業績を1げたにもかかわらず、シェーンハイマーの名は次第に歴史の澱(おり)に沈んでいった。

 それと軌を一にして、再び、生命はミクロな分子パーツからなる精巧なプラモデルとして捉えられ、それを操作対象として扱いうるという考え方がドミナントになつていく。

 必然として、流れながらも関係性を保つ動的な平衡系としての生命観は捨象されていった。

 高度な遺伝子操作を軸とし復活した機械論的生命観が多大の業績をあげつつある現在、著者は何ゆえ、シェンハイマーにこだわるのでしょう。

生命操作への疑問

 ひるがえつて今日、外的世界としての環境と、内的世界としての生命とを操作しつづける科学・技術のあり方をめぐつて、私たちは重大な岐路に立たされている。

 シェーンハイマーの動的平衡論に立ち返って、これらの諸問題を今一度、見直してみることは、閉塞しがちな私たちの生命観・環境観に古くて新しいヒントを与えてくれるのではないだろうか。

 なぜなら、彼の理論を拡張すれば、環境にあるすべての分子は、私たち生命体の中を通り抜け、また環境へと戻る大循環の流れの中にあり、どの局面をとつても、そこには動的平衡を保ったネットワークが存在していると考えられるからである。

 動的平衡にあるネットワークの一部分を切り取って他の部分と入れ換えたり、局所的な加速を行うことは、一見、効率を高めているかのように見えて、結局は動的平衡に負荷をあたえ、流れを乱すことに帰結する。

 実質的に同等に見える部分部分は、それぞれが置かれている動的平衡の中でのみ、その意味と機能をもち、機能単位と見える部分にもその実、境界線はない。

 遺伝子組み換え技術は期待されたほど農産物の増収につながらず、臓器移植はいまだ決定的に有効と言えるほどの延命医療とはなっていない。

 ES細胞の分化機構は未知で、増殖を制御できず、奇跡的に作出されたクローン羊ドリーは早死にしてしまった。

 こうした数々の事例は、バイオテクノロジーの過渡期性を意味しているのではなく、動的平衡としての生命を機械論的に操作するという営為の不可能性を証明しているように、私には思えてならない。

 この本が出版されたのは2008年です。

 それからの6年間、IPS細胞の発見や臨床への応用など、生命科学はとてつもないスピードで進歩しました。

 私たちのだれもがその未来を疑っているようにはみえません。

 しかし、遺伝子組み換え作物が自然環境に(深刻な)影響を与えるがごとく、局所的な細胞操作が「生体という自然環境」に深刻な影響を与えないとは限らないかもしれません。

 科学の派手な成果を手放しで賞賛することなく、過去や現在の世の中で似ていることを注意深く観察し類推していくことも大事であるな〜と思いました。