ファンタジーが大切なわけ

 祝日前の夕方に孫軍団がやってきました。ユウキもナオも本好きになってくれればいいな〜といつも思ってるんですが。。。
 ところが実態はお猿のまんま。

 本なんか秘密のすみかへシーツを垂らすための「重し」。

 夜の10時まで私を巻き込み大暴れ大騒ぎでした。(実はけっこう楽しんでる私です)

 お猿のような孫たちよ、たまには本も読むんだぞ!

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 さて児童文学やファンタジーはなぜ大切なのでしょうか。

 アメリカの女性小説家アーシュラ・K・ル=グウィンに教えてもらおうと思います。

 彼女はSFやファンタジーでも有名で『ゲド戦記』がよく知られています。

 宮崎駿監督の息子さん吾郎さんがかつて映画化しました。


(アーシュラ・K・ル=グウィン)

 私はずいぶん前に『闇の左手』を読みましたが、両性具有の異星人と地球人との接触(友情)を描いたこのSFは実に味わい深い本でありました。

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 数年前になりますが、彼女の論集『いまファンタジーにできること』を読みました。

  「物語」の意味を通して「芸術」の本質とは何か?について大いに考えさせられる本でした。

「メッセージについてのメッセージ」より アーシュラ・K・ル=グウィン

 ・・・文学的な短篇や長編の複雑な意味は、その物語そのものの言語に参加することによってのみ、理解可能だ。

 その複雑な意味をメッセージに翻訳したり、訓話に縮小したりすることは、もとの意味を歪め、裏切り、破壊する。

 それは、芸術作品は頭だけで理解するものではなく、感情や体そのものでも理解するものだからだ。

 実際、芸術そのものが、心、体、そして魂が理解したことを表現するためにわたしたちがもっている言語なのだ

  →いまファンタジーにできること

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 福岡伸一さんはかつて新聞に、この本の書評を寄せました。

真偽の見え方、美醜の基準示す 福岡伸一

 ヒトはサルの幼形成熟(ネオテニー)として進化した。

 そんな魅力的な仮説がある。

 子供時代が延長され、子供の特徴・特性を残したままゆっくり成長する。

 すると好奇心に満ち、探索し、道草を食う。

 攻撃よりも接近、争いよりも遊び、疑いよりも信じることが優先され、合理より物語に惹かれる。

 つまり、学び、習熟し、想像力の射程が延びる。

 これがヒトをヒトたらしめたのだと。

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 『ゲド戦記』で世界を魅了し、愉快な『空飛び猫』(邦訳は村上春樹)を生み出したル=グウィンは実作者の立場から、ファンタジーの作用もまさにそこにあると言う。

 ファンタジーとは、子供だましでも夢物語でもなく、まさに子供であるときにしか感得できない力、子供だけに見える世界を与えつづけることだと。

 それは、レイチェル・カーソンが「センス・オブ・ワンダー」と名づけたもの、あるいは児童文学者の石井桃子が言った「大人になったあなたを支え続けるもの」と同じでもある。

   →『センス・オブ・ワンダー』より

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 なぜ、ファンタジーでは重力が無化され、動物たちがヒトと会話するのか。

 それはデカルト的二元論、キリスト教的排他主義、行動主義理論などがこぞって決めつけてきた大人の理屈、すなわち機械論的自然観から本来的に全く自由であるからだ。

 この本を読んで、私はかつて昆虫少年だったのに、なぜファーブルではなく、まずドリトル先生の物語に惹かれたのかという疑問が解けた気がした。

 ファンタジーは、善悪の違いを教えるだけでなく、むしろ真偽の見え方を教える。

 それ以上に美醜の基準、フェアネスのありかを示す。

 物語のかたちをとって。

 なぜ生命操作が美しくなく、どうして巨大技術が醜いのかを教えてくれるからである。

 あれだけの作品群を書きつつ、こんなに緻密な評論をものにする。

 ル=グウィンをル=グウィンたらしめる理由がここにある。

 私にはこの文章に惹かれるわけがあります。

 それは言葉というか論理の空しさを日々感じるからです。

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 私が、いや多くの人が直面したらきっとそう感じるはずの『邪悪なるもの』があります。

 それは戦争とか原爆とか(それらと深いところでつながっている)原発などです。

 それらが「正義」「必要悪」「効率」というような言葉で、浄化され美化されてしまう現実を日々感じるからです。

 言葉があまりにも役に立たない今、言葉を超える、あるいは言葉の出発点を決める、もっと納得のいく原点はないのだろうか?と日々思うのです。

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 その原点はファンタジー(物語)にあるのではないかと感じました。

 それは次のように言い表すことができるでしょう。

 「真偽は定めるものではなく見えるものである」

 「世には(本質的に)美しいものと醜いものがある」

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 それらを感じる感性は小さい頃ほど豊かであったことでしょう。

 大人になるとその「感性」をおまけのように考え、原点が「言葉」にすりかわっていきます。

 これが私たちの『病』ではないかと感じます。

 そのような「感性」の原点が残っている人も多いと思うのですが、その原点よりも「言葉」が先にあると思い込んでしまうところが問題ではないでしょうか。

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 かつて「金を儲けてなにが悪い」と堂々と語った人がいました。

 正直多くの人は「何かひっかるが、言われてみればそのとおりだ」と思ったのです。

 世のすべて、言葉を工夫すれば悪いことなどひとつも存在しません。

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 しかしもうひとつの判断基準がありそうです。

 「それは美しいことか?醜いことか?」ということです。

 さらにもうひとつあるかもしれません。

 「それは未来にとって善いことか?悪いことか?」ということです。

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 これはミヒャエル・エンデの思想の核です。

 今私たちが選択し行動していることはすべてそのつど未来を変えている。

 その未来からの警告、いや悲鳴を『果てしない物語(ネバー・エンディング・ストーリー)』では聞かせてくれるのです。

 「未来が微笑んでいること」、これが「美しいこと」の本質のひとつであることは間違いないでしょう。

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 この秋は良質の児童文学を読んでみようかな〜と思い始めました。

 ジブリの映画だけ観てまだ原作を読んでいない『ゲド戦記』に挑戦してみようかな〜。

参考
 児童文学は挿絵の魅力
 耳を傾けるという価値
 エンデと「シカンダ」
 寅さんとスウェーデン
 ケストナーと美智子様 
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