「蛭子流・内向的人間のための幸福論」と銘打たれた『ひとりぼっちを笑うな』を読みました。とても共感しました。
テレビでおなじみの蛭子能収(えびすよしかず)さん、いつもニコニコ飄々としたお人柄です。
彼の「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」は大人気だそうです。
私も何回か観ましたが、たしかにおもしろい!
そんな彼が、とても軽くて深い人生哲学?の本を書きました。
オススメです!
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私がこのブログでよく引用する哲学者ショーペンハウエルは著書『幸福論』で有名です。
私が思うに、『幸福論』でショーペンハウエルが語っていることは次の一文に尽きると思います。
「群れるな。一人で生きよ。それがとても愉しいのだ」
そして蛭子さんの語ることも、それと同じと思いました。
本書から少しだけ引用させていただきます。
第一章「群れず」に生きる
●「群れ」にはリーダーが君臨するグループを作ると、そのなかには必ずリーダー的存在の人が生まれるものです。
グループにはまとめ役のリーダーたるものが必要だという組織論的な考えは理解できますが、その人がもし、性格の悪い人だったら、グループはメチャクチャになるでしょう。
そこは、本当に気をつけたほうがいいポイントだと確信しています。
グループっていうのは「集団」だから、どこかしらで安心感のようなものが芽生えるかもしれません。
人間は結局のところちっぽけで弱い生き物ですから、きっとその安心感で「自分はひとりではないんだ」「みんなといれば守られている」と思って勇気づけられるのかもしれない。
野生動物の多くがそうであるように、生き物は「群れる」習性があるから、人間だって同じことなんでしょうね。
でも、グループは必ずしもいいものではなくて、ときとして凶暴になる恐れがあります。
ある種、おかしな方向に行ってしまったら、それはもう歯止めが利かなくなると見ているんですよ。
会社組織もそうですよね。
社内にそういうグループ(派閥)ができてしまったら、そのグループのなかにいる誰かをいじめようとか、そういう考えのある人が、大人でも結構いるものですよ。
志が同じだからその派閥に入ったのに、人間関係がおかしくなるようなことだってあると思うんです。
本人はいいと思って群れたのに、なんだかおかしな話です。
そんなことも含め、とにかく、グループに入っていいことはそんなにないような気がしてなりません。
最近は、インターネットを使った生活が当たり前の日常になりました。
SNSなどで、知らない人とつながるのが流行っているようですが、やっぱり僕は、そういうネットの世界であっても、誰かとつながるのはすごく危険だととらえています。
もちろん、それで楽しいことやいいこともあるのかもしれないけれど、やっぱり危険のほうが勝ってしまうと思うんです。
僕はもしかしたら、人一倍警戒心が強くて臆病なのかもしれませんが、悪いことを考えている人っていうのは、世の中には本当にたくさんいます。
そういうものに巻き込まれて、自分はそういうつもりじやないのに、悪い人の強く絶対的な意見・思考に押されてその人の仲間になって、ついつい一緒に悪さをしてしまうなんてこともあるはずです。
「俺には無縁なことだな」とあぐらをかいていても、ふとしたことがきっかけとなって、悪い流れになる危険性も十分にはらんでいると感じませんか。
だから、ネットで仲間になるのは、なるべくやめたほうがいいと僕は心に固く決めています。
最近も、各地でいろいろ事件が起きていますよね。
『LINE』で繋がっていたグループのいさかいが、殺人事件に至ってしまった広島県の事件などもそう。
少額のお金の貸し借りや恋愛関係のこじれがきっかけで、16歳の少女がリンチ殺人にあいました。
最初は仲がよかったはずなのに、ちょっとしたことで人は凶暴化してしまう典型的な例ですよ。
それもやっばり、集団だから起こり得ることだと僕は思う。
友だちが4、5人集まると、必ず誰かがはじき出されるのが群れの特性。
どうしても誰かをいじめたくなったり、便利な存在として扱うようになる。
これって、人間の本来的な部分に潜む、ものすごく恐ろしい闇の部分だと僕は見ています。
別に誰かをいじめるつもりはなかったのに、「リーダー的存在のAさんが、Bさんにつらく当たるから、わたしもBさんにはつらく当たらないといけないのかな〜」と、そんな雰囲気になってしまうんじゃないかな。
そして最後には、とうとう殺人まで犯してしまうという、信じられないような事態に陥ることになる。
そういうことが起こる可能性は、どんなグループにもきっとあると思うし、それこそ僕がいちばん避けたい事態です。
つまらないことで殺されたくはありませんし、逆に加害者にだってなりたくない。
僕ほど警戒する必要はないにせよ・・・一見よさそうに感じるのがグループというものですが、本当に恐ろしい要素も含んだものだと認識しておくことは、あながち間違っていないと思います。
笑顔の裏に悪魔が潜んでいることだって、たくさんあると思いますよ。
●「群れ」もイヤだが差別も嫌い
グループが恐ろしいのは、そのグループ内の話だけではありません。
大概のグループは、自分たち(自分たちのグループ)を他の人たちと区別しますよね。
つまり、自分たちのグループに属している人と、そうでない人を明確に区別しようとするんですよ。
いじめの詰もそう。
自分たちのグループに属していない誰かをいじめることによって、グループ同士の結束を深めるような、そんな傾向があります。
いじめっていうのは、大体集団でやるものですからね。
共通の敵を作ることによって、その「歪んだ絆」を深めていくわけです。
そうやって、自分たちと他の誰かを「区別」することが、どんどんエスカレートしていくと、どういうことが起こるでしょうか?
それは、やがて「差別」につながっていくと、僕は見ているんです。
自分たちの集団とは異なる人を差別する一差別というのは、非常に根の深い問題です。
誰かを差別する心は、人間の心のなかのどこかに必ずあるものだからやっかいです。
差別っていうのは、どこの国にもある問題ですよね。
それはもう、ある意味では人間が生まれ持った性分なのかもしれません。
ただし、それを表に出しては絶対にいけない!
たとえ「この人、ちょっと違うな」「あれ、なんだか変だぞ」って感じても、それはそれとして受け入れるべきなんです。
集団で誰かを差別して、ましてやその人たちに危害を加えるなんて、もってのほか。
最近、日本でもヘイトスピーチが問題になっていますよね。
ああいうニュースを見る度に、本当に「群れる」ことは怖いなって改めて実感します。
だって、群れた上に差別ですから、それは正直なところ始末に負えませんよ・・・。
国同士の摩擦はあるかもしれないけれど、同じ日本に住む者同士、仲よくやればいいのになあ。
百歩譲って、仲よくできないのはその人の思考かもしれないけれど、差別的なことを強く意思表示する必要などありませんよ。
世の中には、外向的な人と内向的な人、お金持ちと貧乏人まで、本当にさまざまな人たちがいます。
それでも、みんな同じ「人間」なんですよね。
そのことだけは、常に頭のなかに置いておかなければなりません。
差別的な感情っていうのは、多くの場合「誰かを見下したい」という、人間のなかにあるネガティブな欲求と結びついているような気がしてならないんです。
誰か自分より下の相手を作ることによって、自分が偉くなったように錯覚するということかもしれない。
自分が優位に立つために、他の誰かを貶めるなんて、本当に愚かな行為だと思う。
ただ、そうやって誰かをいじめたり、差別したりするような人も、実際に一対一で会って話してみたら、普通にいい人だったりすることが多いからこれまた不思議。
ちょっと拍子抜けするくらい、ごく普通の人だったりしますよ。
だけど、一旦そのグループの一員になってしまうと、どんな非道なこともしかねないということなんです。
やっぱり、グループになってよいことなんて、ひとつもないんじゃないかな。
私も年々歳々、蛭子さんと同じ心境になってきました。
だから「国家」とか「民族」とか「宗教団体」とか「経済団体」とか、そんな「群れ」がとても苦手なんです。。。
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<ショーペンハウエル爺さん関係の過去ブログ>
毒舌幸福論「人は変わりようがないのさ」
ショーペンハウエル「悩みは幸福の尺度である」
睡眠は死への利息払い
本を読むなという「読書論」
超訳「毒舌幸福論」
意地悪じいさんの本
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