一番好きな詩は津軽弁

 35年前に出会った津軽弁で書かれた一篇の詩。この詩を読むたびに目頭が熱くなり心が洗われるのでした。
 20代の頃、私は「津軽弁フリーク」でした。

 津軽弁、特に女性のそれは音楽のような響きで私を魅了したのです。

 母国語に似ていると言ったフランス人もいたそうです。

 私にもシャンソンのように聞こえるのです。

 女性の津軽弁を聞くと、もう〜〜うっとりします。

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 当時勤めていた会社では何度か弘前に出張することがありました。

 出張の際はよく「津軽書房」という出版社兼書店に寄りました。

 乏しい小遣いの中からやりくりし、そこで津軽の詩集や津軽弁のレコード、津軽の歴史書などを買い求めたものです。

 友人が弘前出張中にけがをして弘前の大きな病院に入院したときには、見舞いもかねてですがよく電話をかけました。

 それは電話口に出る受付や看護師のお姉さんたち(おばさんたち?)の津軽弁を味わうためでもありました。

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 思い出に残る詩集があります。

 それは、高木恭造という詩人の『まるめろ』という詩集でした。

 作者朗読ソノシートのついた丁寧な装幀のその本は、2003年の地震以来、押し入れの奥深くにしまったままです。

 探すよりも買った方が早いと思って、このたび新版を取り寄せました。(今も津軽書房から出版されていたのが嬉しい)

 ある詩を、再び声にしてみたいと思ったのです。

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 声にしてみたい詩は『彼女アあの日ネ』(アレアあのシネ)でした。

 若い頃は暗誦していたのですが、もうところどころ忘れてしまいました。

 この詩を津軽弁(もどき)で読むというか歌っていると、いつも切なく懐かしい思いがス〜〜ッと胸をよぎるのです。

 草いきれ、そよぐ風、沢の音、鳥の声、柔らかい光、そして、シャイで純真だった青春時代に戻るような。。。

 津軽弁ならではの独特の音調が純朴さをかもし、より哀愁、郷愁、追憶を誘います。

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 詩集『まるめろ』は昭和6年に発行されました。

 その初版には、扉に「亡き妻ふぢ子へ」の献辞があったそうです。

 この詩の哀切は若くして亡くなった妻への思慕であります。

 わずか4年の結婚生活でした。。。

高木恭造 略年譜

 明治三十六年(一九〇三)十月十二日青森市米町に生れる。

 青森市橋本小学校、青森県立青森中学校を卒業後、東津軽郡一本木村(現在今別町)大泊小学校代用教員を経て旧制弘前高等学校理科に入学。

 同校卒業後、大正十五年青森日報社に入社。当時主筆として在社した福士幸次郎を知り、紙面の埋草に方言詩を書きはじめる。

 同年岡本ふじと結婚。

 昭和二年青森日報社を辞めて上京、二カ月にわたる職さがしの上小出版社に勤めたが、翌三年に倒産。

 同年十一月妻ふじのてづるを頼って満州に渡り、昭和四年四月奉天市にあった満州医科大学に入学したが、この年の暮、妻ふじを肺結核で失う。

(後略)

 自己流の津軽弁で、ぜひ朗読してみてください。

 きっと、このような情景がうかんでくることでしょう。

   

 かつて二人で歩いた早春の沢筋。

 出会いの頃を思い出しながら、まわりの草花に目をとめ、鳥のさえずりにふと面をあげ、癒やされていく。。。

 しかし目を開ければ、そこはあわただしき東京の夕暮れ。

 現実と追憶のコントラストに、かえって在りし日の彼女の想いが心に伝わってくるのであった。

   

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 好きな詩をタイプしながら心は洗われていくようでした。。。