「戦う」と「闘う」はどう違う

 「戦う」と「闘う」はどちらも同じ読みです。しかし意味は大きく異なります。漢和辞典にはこう書いてありました。
 「戦う」:戦争や試合など具体的な争いの場合

 「闘う」:目に見えないもの、抽象的なものとの争いの場合

 例は、「優勝候補と戦う」「病気と闘う」などです。


(興味深い書名をネットで見つけました。→本の紹介はこちら

 三年前の二月に私はこんなブログを書きました。

 今、もういちど考えてみなくては。。。。

ノボ・アーカイブス

「戦う」と「闘う

 なぜこんなブログを書こうとしたのかといえば、昨日の個人的な体験からです。

 昨日、88歳(※2012年当時)になる父がちょっとした手術をしました。

 おかげさまでうまくいき、ほっとしたところなんですが、あれこれ感じたことがあります。

 あらかじめ問診表に過去の病歴などを書くのですが、父は歳のせいで日々薄れゆく記憶力。。。

 私が、自分の記憶と、父にあれこれ聞きながら記載しました。

 書ききれないほどの病歴。。。

 成人してからだけでも、シベリアでの狭心症、帰国してからの虫垂炎、3年入院した肺結核、胃がん、メニエル氏症候群、大腸がん、2度の膀胱がん・・・

 それでも、それぞれの病気が回復すると元気になって、今でも歯は全部自分の歯だし、毎日里山歩きを1時間するほどの丈夫な足腰です。

 昨日、父の手術前に服を脱がせて久しぶりに体を見れば、戦争では甲種合格となったほどの立派な体格もすっかり縮み、腹には刀傷ならぬ手術の痕がめだつだけです。。。

 あ〜父の人生とは、「病気との闘い」であったんだな。と、そんな感慨に一瞬ふけりました。

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 私たちは「たたかう」といえば「戦う」だけを想像しがちです。

 政治も映画も恋愛も決めゼリフはこんな言葉です。しかも必ず「守る」がつきものです。

 「国を守るために戦う」「家族を守るために戦う」「君を守るために戦う」

 人はこんな言葉が大好きで、戦い合うどちらも同じことを言いながら殺し合いをはじめます。

 必ず一かゼロかのデスマッチです。

 言葉の勇壮感とは裏腹に、本当の暴力とは実に醜悪なものです。

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 さて、ほんとうに大事な「たたかう」はどっちなのでしょう。

 「戦う」よりも「闘う」のほうが私は大事だと思っています。

 人はだれでもみな「闘っている」のです。

 「病気と闘う」「貧苦と闘う」「理想に向かって闘う」「弱点と闘う」「自分自身と闘う」・・・

 相手を打ち負かすことが目的である「戦う」とは異なり、「闘う」は相対的なものではありません。

 「闘う」は、自分自身が成長することにつながります。

 私には、「闘う」という言葉が、「謙虚」という言葉と大変近しいものに思えます。

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 今の社会に私はこう言いたいと思っているんです。

 私たちは戦争なんかしている暇はない。

 それぞれの「闘い」で精一杯のはずだから。

 もし「戦い」という言葉にあこがれる人がいたらその人を私はこう思います。

 あなたは自分のなすべき「闘い」を見ないふりしたい人に違いない。

 大言壮語が得意だったり、好戦的な言動や行動をする人、それは臆病の裏返しであることにそろそろ私たちは気づかねばなりません。

 「戦う」とは相対的競争のことです。

 こんな能力ばかり上げていこうとしたら、人は自分自身を見つめなおすことができる「闘う」能力をますますなくしてしまうことでしょう。

 教育とは、競争力を上げる「戦う力」より、人を高める「闘う力」を与えることのほうが重要なはずです。

 「戦え!」という単純な言葉しか心に響かない、単純なことしか理解できない、私たちがもしそんな大人だとしたら、私たちの子供や孫がどうなるか、とても怖いことです。

(2012.2.28)