新しい「男らしさ」とは?

 BSジャパンで「ワーキングデッド」という番組を偶然見ました。職場にいる旧弊な人々をゾンビのようにデフォルメしドラマ化しています。
 ま〜、面白い番組です。

  →ワーキングデッド〜働くゾンビたち〜

 私も何かのゾンビに分類されそうです。。。

 さて、ゾンビの中に「さとり世代disりデッド」という種類がいます。

 無欲無臭的な若者社員を「さとり世代」と決めつけ、なにかにつけて揶揄したり無視したりする「オヤジゾンビ」です。

 このゾンビには、自分が若かった頃の過剰な「男らしさ志向」「上昇志向」「挑戦意欲」などが影響しているようです。

 私もこのゾンビ菌に少し冒されているようなので反省を込めて一文をご紹介です。


中村邦生著『いま、きみを励ますことば』(岩波ジュニア新書)
「5章 斜に構えた考え」より

男らしくしろと言われても

 男のくせにめそめそするな、男ならあきらめずに戦え……などと言われてこなかった男はいないはずだ。

 親から言われたことのない稀なケースがあったとしても、まわりから無言の圧力は感じてきたに違いない。

 こうした要求に強い違和感を感じている者たちも少なくないだろう。

 この問題を比較文化的なフィールドワークから考察した人がいる。

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 なぜ、多くの社会の人たちが、「真の男」とか「本当の男」といった状態を不確実で当てにならないものと見なし、それを努力して勝ち取り奪い取るべき勲章と考えているのか?

 また非常に多くの社会が、なぜ、文化的制裁、儀礼、技能と忍耐力を試すテストを設けることによって、なかなか獲得できない高尚な男性像を作っているのだろうか?

 デイヴイッド・ギルモア『「男らしさ」の人類学』(前田俊子訳)

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 デイヴイッド・ギルモア(1943〜)はアメリカの人類学者。

 『「男らしさ」の人類学』は、引用文の問いにあるような「男になる」ことの意味を世界各地の文化の事例を比較しながら考察した本。

 この中で、「男らしさ」の獲得が、至上の目標として要求されている文化と何ら要求されない文化があることが明らかにされる。

 男女の性役割の区別が希薄な社会の研究では、アメリカの文化人筆者マーガレット・ミードが有名だが、ギルモアの紹介するマレーシアのセマイ族はいっさいの戦いを忌避する平和主義者で、その徹底ぶりは驚くほどである。

 争いも競争も無縁の人びとは、体も小柄で何やらトールキンの『指輪物語』の描くホビット村の住人を思わせる。

 前者の「男になる」ことが必要とされる社会がなじめないのであれば、どうしたらいいだろう?

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 「努力して勝ち取り奪い取るべき勲章」の内容は文化によって寒に多様な姿を示しているが、克己的な努力と忍耐を要求するところではすべて共通している。

 ここで思い出すのは、『男について』という「男」をめぐるエッセイのアンソロジーで、アメリカの作家ポール・セローやコラムニストのラッセル・ベイカーが、「男らしさ」 の追求がいかに男たち自身に抑圧的な役割を強いるものであるか嘆いている事実だ。

 アメリカの場合、過去の大統領の中には、強い男の政治的演出のため、休暇にわざわざカウボーイの姿をした者もいたほどである。

 こうした「男らしさ」の見方を相対化する多様な視点を知れば、もはやむりに男らしくすることはない、ときみが思うのは当然だろう。

 それはそれでよい。

 しかしあきらめたところで、何か気持ちに淀みが残り、心を活気づけないこともたしかだろう。

 どうしたらいいか?

 一つのヒントはギルモアが多くの文化的事例で発見した結論、男らしさとは「与えること、助けること」、すなわち「養育的概念」であるという点だ。

 「『真の』男もまた養育するのだ」

 他者を助け、育て、「社会を育成する」という特性。

 そうであるならば、「男らしさ」とは「女らしさ」との協働的な目標となるはずである。

 仕事場だけの話ではありません。

 マッチョ世界に向かって逆噴射している今の政治や社会状況。

 「さとり世代」という「新しい男らしさ」を無意識に志向する若者にとって、とても負担になるかもしれません。

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 今の若者世代とは反対に、マッチョ世界にあこがれを抱くオヤジ世代の「男らしさ」トラウマも存在するようです。

 社会学者伊藤公雄氏は著書『「男らしさ」という神話』でこのような分析をしています。

ジレンマのなかの男の子たち

 過保護・過干渉のなかで実際はひ弱な男の子たち。その一方で、彼らの母親と並ぶもう一人の重要な「育ての親」であるメディアは、「戦え」「強くあれ」とつねに語りかける。

 「強くあれ」という過剰な<男らしさ>を要求する声と、実際はひ弱な存在でしかない自分。このジレンマが、自らの弱さを押し隠し、自らの「強さ」や「支配する力」をやみくもに確認すべく、男の子たちを過剰な「暴力」へと導いたと考えるのは、考えすぎだろうか。

 私はこの「男の子」というのが、私たちオヤジ世代をも指しているように思えるんです。

 私たちも多かれ少なかれ同じ心境のときがあったし、今でもそのままの人も数多くいます。

 そして、その無意識のトラウマが「体罰問題」や「国家志向(自分を同一化できる権力へのあこがれ)」の遠因となっているような気がするのです。

 それは、日本だけでなく中国や欧米の国々でさえも。

 特に親や周囲から期待されてきたエリートとか、政治家を志した男(の子)たちの心理の奥底に、深く沈潜しているのではないでしょうか。

 ファシズムやナチズムの背景の一つに、近代社会の中で不安定な状態にある男たちが、社会全体を<男らしさ>で充満させることで克服しようとしたということがあるのではないか。実際ムッソリーニはこんなことを言っている「古い民主・自由主義的な小イタリアの残りかすに抗する、男らしさの復権としてのファシズム」と。

 私たちオヤジ世代も含め、これからの家庭、社会、政治で考えるべきは「男の母性」「寛容という父性」という「新しい男らしさ」であると、私は思うのです。

参考
 →戦国時代はカカア天下