ゲーテ 「嫌な人ともつきあう」

 「ゲーテはひとまわり人間が大きいから、読んでいると自然に自分も大きくなった気がするんです」と水木しげるさんは語りました。『ゲーテとの対話』(エッカーマン著)から、そんな思いを感じさせる文章をひとつ紹介します。
 「ゲーテの深い言葉」第3話を書きました。


(水木しげるさん『ゲゲゲのゲーテ』より)

 若きエッカーマンは真面目すぎるのか少々人付き合いが不得意のようです。

 そんな彼にゲーテは大切な助言を与えます。

 水木しげるさんも、この文章を『ゲゲゲのゲーテ』に載せていますが、原文を読むとそのときの状況や前後の話がわかり、ゲーテの温かさがよく伝わってきます。

岩波文庫『ゲーテとの対話』上巻p170
1824年5月2日

 エッカーマン「私は社交の中に、たいてい自分の個人的な好意や反感、それに愛し愛されたいという要求のようなものを持ち込んでしまうのです。自分の性分に合った人を求めていますので、そういう人には、喜んで献身するでしょうが、その他の人とは何の関係も持ちたくないのです。」

 「そういう君の癖は」とゲーテはこたえた、「もちろん社交的なものではない。けれども、もし自分の生まれつきの傾向を克服しようと努めないのなら、教養などというものは、そもそも何のためにあるというのかね。
 他人(ひと)を自分に同調させようなどと望むのは、そもそもばかげた話だよ。私はそんなことをした覚えはない。私は、人間というものを、自立した個人としてのみ、いつも見てきた。そういう個人を探求し、その独自性を知ろうと努力してきたが、それ以外の同情を彼らから得ようなどとは、まるっきり望んでもみなかった。

 だから、現在ではどんな人間とも付き合うことができるようになったわけだが、またそれによってのみ、はじめて多種多様な性格を知ることもできたし、人生に必要な能力を身につけることもできたのだ。

 性に合わない人たちとつきあってこそ、うまくやって行くために自制しなければならないし、それを通して、われわれの心の中にあるいろいろ違った側面が刺激されて、発展し完成するのであって、やがて、誰とぶつかってもびくともしないようになるわけだ。君も、そういうふうにするべきだね。君には自分が思いこんでいる以上に、その素質があるのだよ。

 ところで、そんなことではだめだな。とにかく君は、上流社会へとびこんでいかなければならない。もちろん君は、君の欲するように身を処せばいいんだよ。」

 エッカーマンをまるで自分のように感じてしまい、己の器の小ささが恥ずかしくなります。。。

 しかしゲーテにしても、この心境に至るまでには大変な苦労があっただろうことは、昨日書いた「わが悔やまれし人生行路」でうかがいしることができます。

 ゲーテは偏狭さを嫌い、総合的に世界や人間を認識しようとしました。

 しかもあらゆることは「自分自身」のためでありました。

 若きエッカーマンに「自分自身」を重ねての温かく大切な助言だったのでしょう。

 私は足もとにも遠く及びません。。。

  参考→「ゲゲゲのゲーテ」より抜粋
   →ゲーテ「趣味について」
   →ゲーテ「わが悔やまれし人生行路」
   →ゲーテ「嫌な人ともつきあう」
   →ゲーテ「相手を否定しない」
   →ゲーテの本を何ゆえ戦地に?
   →ゲーテ「私の作品は一握りの人たちのためにある」
   →ゲーテ「好機の到来を待つ」
   →ゲーテ「独創性について」
   →ゲーテ「詩人は人間及び市民として祖国を愛する」
   →ゲーテ「若きウェルテルの悩み」より抜き書き
   →ゲーテ「自由とは不思議なものだ」
   →ゲーテ「使い尽くすことのない資本をつくる」
   →「経済人」としてのゲーテ
   →ゲーテ「対象より重要なものがあるかね」
   →ゲーテ「想像力とは空想することではない」
   →ゲーテ「薪が燃えるのは燃える要素を持っているからだ」
   →ゲーテ「人は年をとるほど賢明になっていくわけではない」
   →ゲーテ「自然には人間が近づきえないものがある」
   →ゲーテ「文学作品は知性で理解し難いほどすぐれている」
   →ゲーテ「他人の言葉を自分の言葉にしてよい」
   →ゲーテ「同時代、同業の人から学ぶ必要はない」
   →ゲーテ「自分の幸福をまず築かねばならない」
   →ゲーテ「個人的自由という幸福」
   →ゲーテ「喜びがあってこそ人は学ぶ」